『ルート1』(ロバート・クレイマー/1989)


アテネフランセクリス・フジワラ氏による連続講義「アメリカ映画における時間とパフォーマンス」にて初ロバート・クレイマー。255分。其処に描かれているアメリカの社会史/個人史への非常に透明度の高い、痛みの批評を語る以前に、まず、とにかく面白い映画だった。主人公ドクがジャケットを纏いドアを開ける冒頭の数ショットから、犯罪映画の密入国シーンのような切迫した雰囲気が炸裂するや、なんと『イントゥ・ザ・ワイルド』(!?)の如く渓流の全裸泳ぎが始まり、これって最強のアメリカ映画じゃないですか!と驚きの連続。ワイズマンの如く素早く切り替る空絵。嗚呼、『マイルストーン』を見逃したことが本当に悔やまれる、、。


クリス・フジワラ氏の「可変的な国境」という言葉が面白かった。船舶や大橋、建造物の撮り方が、まるで「アメリカ」という巨大な建築物を恐れるか、又は意図的に誇示するかの如く、下から見上げるようなスペクタクルな撮り方、同時に対象の周囲を旋回するような、観察者の視線を併せ持っているのが印象的。人為による国境の線ではなく、あくまで地理の形状による境、淵をカメラは執拗に観察する。移民の国=実験の国アメリカの表象として、船や橋が頻繁に登場する。「革命だと信じていたものがアルコールとドラッグだった」と語る主人公ドクのアメリカへの帰還。日常を「明晰に」生きる看護婦の台詞「緩慢な戦争」という言葉がいつまでもリフレインしている。と同時に『ルート1』に出てくる人の確信を持った身振りは何処かノスタルジックでもある。人の話す言葉が中途でカットアウトされ街の景色に溶け込んでいく様は、画面(構築物)から其の淵へと緩やかに雪崩こんでいくような、境界の可変性を感じた。