『たのしい写真 よい子のための写真教室』(ホンマタカシ)

たのしい写真―よい子のための写真教室

たのしい写真―よい子のための写真教室

ホンマタカシが平易な文章で(というところがポイントなのですが)ざっくばらんに写真術を語るという本書。とても面白かった。アンリ・カルティエ=ブレッソン『決定的瞬間』(小型カメラ=ライカ)に対するニューカラー派(大型カメラ)の台頭までを近代写真史における大きな山=モダニズムの確立とし、そこから多様なポストモダンへと広がっていく簡略的な歴史の講義で、「持続」という言葉が用いられる。「瞬間」に対する「持続」。しかし本書を読み進む内に、この対称的な2項は歩み寄る、というよりも、一枚の写真の中で互いに離反しながら融解、共存する、というべきか。現代写真が抱える複眼性と共にホンマタカシ氏の姿勢がチラリと垣間見える。氏は生涯ひとつのスタイルで貫く作家も素晴らしいのだけど、作家のスタイルの変化にこそ、より魅せられるのだという。代表的な作家としてロバート・フランクの名前が頻出する。


ホンマ「写真にとっての真実というのは、写真家がそのとき、その場所にいたということしかないというのは本当にそうだと思います。」


「ワークショップ篇」では生徒さんが荒木経惟の作品を同一ロケーションで入念なフレーミングの元、そっくりそのまま真似てみたけれど、出来上がったモノは全く違うモノだったというチャーミングな習作が載せられている。説明するのが非常に困難なのですが(でも読んでると掴めてくるのよ)、そのロケーションを選ぶのは作家に違いないのだけど、フレームを決めるのは、対象に迫るのは作家ではない、フレームに映るすべての対象は等価であり(=ニューカラー)、対象は向こう側からやって来る、という「被写体=環境」論が面白い。ちょっと映画と似ているな、と思った。これと近いのは、やはり思いがけない役者のアクションだろうか?すべてイメージどおりに統御して万事オーケーな天才肌の作家はごく稀なのでともかく、頭の中にあるイメージの具現化にはそれほど興味がなく、むしろそこを超えていく瞬間(裏切られるのもまた良い)にこそ、モノを作る醍醐味はある、という人は少なくないと思う。写真や映画に限らずの話ですね。


パリ、テキサス』(ヴィム・ヴェンダース)のロケハン写真集はニューカラーの影響をあざといくらいに受けすぎてるとか、ゴダールの『カラビニエ』のお話(ポストカード)とか、マイク・ミルズとキム・ゴードンの寝室を撮ったエピソードとか、中平卓馬をはじめ様々な写真家のお話とか(個人的には宮崎学が興味深かった)、何処から読んでも面白い本なのですが、生態心理学者の佐々木正人氏との対談で、ひたすら押し寄せる波をバチバチ撮ったホンマ作品についてのやり取りが非常にスリリングで痺れた。


佐々木「そうすると、ホンマさんにとってシャッターって何ですか?」
ホンマ「そうですね・・・この波の写真には決定的瞬間もないですし、だから「いつシャッターを押しているのですか」「いつ押すタイミングを決めるのですか」とよく聞かれるんですが、本当にいつでもいいという感覚なんです。」


追記*ポール・フスコが撮ったロバート・ケネディの遺体を乗せた葬送列車の取材写真はウワぁこれはとても映画的だなーと思った。取材規制のおかげで沿線に並んで列車を見送る民衆をひたすら撮ることを選んだポール・フスコ。決定的な中心を欠きながら結果的に「アメリカ」を大きな円で囲い込むという、なんというか、素晴らしいね!