『レスラー』(ダーレン・アロノフスキー/2008)


「デフレパード、モトリー・クルーガンズ・アンド・ローゼズまでは良かった。ところがニルヴァーナの登場でお気楽ムードも台無し、、、90年代最低!」


「80年代最高、90年代最低」と酒場で意気投合したミッキー・ロークマリサ・トメイのバックでLAメタルを代表するバンド、ラットの「ラウンド・アンド・ラウンド」が流れ出す。おおぉLAメタル!故カート・コバーンがことあるごとにメディアの前で公開処刑していたバンド群。劇中で挿入される80'sの楽曲群の中、唐突に挿入されるマドンナが何故かゼロ年代の楽曲なのは、ともすれば80'sの物語!?と錯誤感を覚える本作にあって、物語を一気に現代へとリンクさせる扉の役割を狙っているのだろう。ミッキー・ロークの復帰試合、ガンズ・アンド・ローゼズの「スウィート・チャイルド・オブ・マイン」が入場曲として会場に響くとき、上述の台詞を反芻するまでもなく、私たちはこれが彼の最後のファイトになることを知る。輝かしい80年代の終焉、レクイエム。そしてアメリカは反省する。菊地成孔氏の言葉を借りればこの頃の「反省するアメリカ」映画の系譜(例『ミルク』、『フロスト×ニクソン』)に連なるのが、本作『レスラー』だ。


テーピングの間に仕込んでいた鋭利なブツで自らの額を切る”演出”が行なわれるファイトや、試合前の楽屋における対戦相手との巨大ホチキス(メチャ痛い!)の打ち合わせなど、プロレスの裏側を手持ちカメラでとらえた前半は、過去の試合で負った痛ましい傷をストリッパー=マリサ・トメイに誇らしげに語る落ち目のレスラー=ミッキー・ロークのシーンを頂点に、目を覆いたくなるほど濃厚なブルースが流れている。


無謀なファイトの末、心臓発作で倒れるエピソードを境に、疎遠になっていた娘との再び動き出す時間や、スーパー、惣菜屋での仕事、マリサ・トメイとの仄かな恋に物語の比重が置かれるのが後半。娘とのデートで思い出の地を訪ねるのだけど、其処はいまや廃墟になっている。レクイエム感が煽られる。娘は父の背中を見つめ、腕を組もうと詰め寄る。廃墟の中、親子が手を合わせダンスを踊るシーンは感動的だ。しかし愛娘やトメイとの擦れ違いの末、惣菜屋での些細な一件を機にリングへの復帰を決意したロークは、20年前の歴史的ファイトの再現、アラブ系(!)レスラーとのドリームマッチへと準備を進める。唐突に会場で湧き上がる「USA!」コールは、この作品におけるロークのラストアクションを考えたとき非常に興味深い残響となる。


さて、個人的にはこの作品をあまり好意的には受け止められなかった(とはいえダメだったというわけではないのですが)。プロレスの実態云々や、菊地成孔氏による本作への批判(批判という言葉が拙ければ、少なくとも好意的ではないよね)とは全く別の文脈だと思うのだけど(格闘技門外漢なので分からないし)、ダーレン・アロノフスキーの80年代への距離の問題ですかね。特に後半の距離は対象にやさしすぎるように思えた。物語上にしても撮り方にしてもミッキー・ロークは決して笑い者にはなっていないし、けっこう愛されてるじゃん!?と。立ち位置の脆さに痛烈なメス、もしくは転じて笑い、が入らないのだよね。たとえば『ロッキー・ザ・ファイナル』でスタローンは、自身と時代の栄光を自虐的なまでにパロディすれすれに突き放した、その上で、ロングショットに灯る電球で泣かせるわけで。手持ちカメラ如何やハッピーエンド如何とは関係のない話です。おそらくこの作品への賛辞として贈られる言葉を真逆に使わせてもらうなら、本作にはブルースが少しばかり足りなかった。


以下、菊地さんの記事。
http://www.kikuchinaruyoshi.com/dernieres.php?n=090616015525