『The Corridor』(シャルナス・バルタス/1994)


相対性理論渋谷慶一郎『アワーミュージック』で快く幕を開けた2010年。一発目は輸入DVDでリトアニア映画作家シャルナス・バルタスの『The Corridor』。シャルナス・バルタスの映画を見るのは恐るべき処女中篇『Praejusios Dienos Atminimui』、長編『Trois Jours』に続きこれで3本目。このオランダ盤DVDにはレオス・カラックスのコメントが載っていて、かなりアバウトに意訳抜粋すると「シャルナス・バルタスはほつれやすい糸の上を真っ直ぐに歩くように」この美しいフィルムを仕上げ、ここに在るのは「痛みと宇宙の辺境の光」であると。ときに「豊かで冷淡」な記録者としてのバルタスを「無口な詩人」と形容している。実にカラックスらしい言葉だと思う(訳が間違ってるかもしれないけど)。シャルナス・バルタスの処女中篇・長編に関して以前書いた拙文は以下に。
http://d.hatena.ne.jp/maplecat-eve/20090105


開巻早々この作品の登場人物はフレーム外から聞こえる歌によって亡霊化される。全編に渡り台詞のないモノクロ映像、相変わらずリトアニアの凍てつく寒気が薄い霧のように画面を漂い、世界の寒気(外気)に怯える人物の顔が強烈な印象を残す。人物の表情は対面する人よりもフレーム外から絶えず響く音にこそ反応をみせる。アクション・リアクションの関係が対人物ではなく対音楽(=ノイズ)なのだ。銃口を口に含み煙草の煙を入れる老人は、やがて銃口を使って音楽を奏でる。この音楽・合図が街全体に響き渡ると、ここから映画は異形のミュージカル映画へと変貌を遂げる。あらゆる外気=フレーム外=世界のノイズを防ぐかのような室内ではパーティーが開かれ、音と人のアクション・リアクションの関係は反転する。テープデッキから耽美なタンゴの流れるシーン。人物はフレーム外の音に先立って指揮を執る。ここで初めて世界のノイズを人間がコントロールすることになる。ただしこのパーティーが亡霊化された人間による宴だというところに留まりがある。


世界の外気に「ヤラレちまった人(&街)」の画面への収まり方。すべての人物はフィリップ・ガレルの映画のような影を身に纏っている。世界の外気に凍えて死にそうなのに無邪気な魂だけが画面を生きている。生まれながらにして故郷喪失者のような彼ら彼女らは、こういった言い方は不謹慎だけど難民にしか見えない。世界の外気に怯える弱々しい女性の裸、光に曝された彼女は生まれたての鹿のように震えている。その影が強烈な印象を残す。身体と切り離された無邪気な魂は、この亡霊の街のイメージと衝突を起こすことで「どこでもない場所」のポエジーを呼ぶ。少女は手に取った銃で至近距離から鳥を撃ち落とす。少女は土に描いた「人の影」を燃やし、終いには「白いシーツ」を燃やす。沼地のような水溜りでシーツが燃え上がる。カラックスが本作の舞台を「どこかで」と評するように、此処は名前のない亡霊都市なのだろう。


ひとりの女性がダンスの最中に倒れる。そのクローズアップはどこかバタイユ的な甘美な死の香りがする危険なショットだ。窓は放たれ宴に外気が押し寄せる。凍てつく霧は部屋中を満たし、再び世界の音の中で人は生活を始める。シャルナス・バルタスとカテリーナ・ゴルベワが世界へ向ける豊かで冷淡な眼差しは、いったい何処へ向けられているのだろうか。フレームの外へ。ノイズが構成する視聴覚の世界へ。スゴイ!


追記*同じくカテリーナ・ゴルベワとの大傑作『Trois Jours』から洗練だけを拒否しながら深化を遂げる様にも感銘を受ける。ほつれそうな糸の上を歩くがごとき繊細さで紡ぎつつ、ゴツゴツとした画面の肌触りが素晴らしい。絶えずフレーム外の音に意識させられる設計。テープの逆回転(音のみ)!