『ホーリー・モーターズ』(レオス・カラックス/2012)


100年前に壊れたはずのオルゴールが突如メロディーを奏で始めたかのような、恐怖と驚きと、何より望みが託された映画。レオス・カラックスの待望の新作は、彼の作品がいつもそうであったように、再度、映画と対峙する「動機」を冒頭の画面に示す。リュミエール兄弟以前にエティエンヌ=ジュール・マレーによって発明された写真銃で撮影された、少年のダイナミックな運動。ここで人間の身体、運動というカラックスのキャリアを貫くテーマと同じくらい重要なのは、この100年以上前に記録された少年の運動が「行って、戻る=中断される」運動であったことであり、ここには『汚れた血』におけるドニ・ラヴァンの、多幸感の絶頂から同じく中断されてしまった、あの疾走を重ね合わせることの意義、以上のものがある。なぜならこれは、この100年以上前に撮られた少年の映像を、まだ20代半ばのカラックスがまったく意図せずに、あのとき繰り返していた、ということであり、これは作家本人さえ意図していなかった映像史に対する巨大な「反復」=運動を意味するからだ。エティエンヌ=ジュール・マレーの映像に「100年以上前に発明されたモーション・キャプチャー」を見たカラックスの作業は、ジャン・グレミヨンが『燈台守』で同じくリュミエール以前のゾエトロープという影絵の再発明へ立ち返ったように、歴史に対する大きな大きな反復=再発明を試みる。それこそが映画を駆動させるもの、”ホーリー・モーターズ”である、と。カラックスの主張は複雑な回路を通してきっぱりと単純な対象への力強さを志向している。意図になかったもの、つまりまったく望外なものを現在のカラックスが発見してしまった、ということの絶えることのない枝葉は、『ホーリー・モーターズ』のすべてのテーマと関わってくる。望外ともいえる多幸感からの中断、というまるで人生のようにメリーゴーラウンドな運動は、その根底に、すべてに間に合わなかったということへの深い悲しみ、喪を潜めている。たとえば冒頭の映画館でカラックス(自身が出演している)は劇中の死=銃声に間に合わない。スクリーンから流れる港を出発する船の汽笛の音、再び生きることの音を聞くことだけが彼に許されている。『ホーリー・モーターズ』は、このプロローグによって一旦フレームの外に置かれた希望を、ドニ・ラヴァンの身体による非プログラム化によってフレームの中に取り戻していく、託していく作業のように思える。このレクイエムの作業は、カイリー・ミノーグの素晴らしい歌声、その空気を切り裂く発声、歌詞(「Who Were We?」)、さらに地の底から上昇していくかのようなダイナミックなカメラワークによって、魂の解放!が謳われる、極めて美しいシーンで最高値を記録する。



ミシェル・ピコリの放つ、「美は見る人の瞳の中だけにある」というセリフが頭について離れない。瞳=カメラがどんどん小さくなっていく、というモチーフは、『ポンヌフの恋人』におけるジュリエット・ビノシュが抱えていた盲目の問題と関わっている。『ポンヌフの恋人』においてジュリエット・ビノシュはどんどん目の自由を奪われていった。故にドニ・ラヴァンの吐く炎は傷口にして刃であり、ジュリエット・ビノシュが夜の美術館で蝋燭の炎を頼りに絵画をアップ(!)で見るシーンは痛ましくも感動的だった。または『ポーラX』のギョーム・ドパルデューが最後に見たピンのボヤけた景色を思い出してもいいだろう。あるいはカテリーナ・ゴルベワが深すぎる眼差しで幻視した、「海の底にいる友達」。そこには映画を駆動させる聖なる原理があった。では、『ホーリー・モーターズ』のミシェル・ピコリの言うように、「見る人がいなくなってしまったら?」。カメラの背後に誰もいなくなってしまう、という恐怖と、相反するようだが彼岸に向けられたかのような希望は、『ホーリー・モーターズ』に含まれるいくつかのレクイエムの一つだろう。「カメラアイ」というものに対する長い長いお別れ。『ホーリー・モーターズ』の中で、ドニ・ラヴァンの瞳によって一人の女性を捉えた主観ショットの、恐ろしくも涙で滲んだ、あの刻まれ方を一生忘れることはできないだろう。それは長い長いさよならを、無言で告げるためのショットだった。窓枠の向こうでさよならを告げる女性。主観ショットは主観ショットではなくなり、瞳はドニ・ラヴァンという主体のものだけではなくなる。『ホーリー・モーターズ』は、もう二度と会うことのできない彼や彼女、家族との長い長いさよならと、これから先も共に生き続けることができる、ということを教えてくれる。ほんの少しのユーモア=喜劇と二度と取り返しのつかない喪失は、人生において狂暴なほど混沌としながら、決してお互いを消し合うことはないのだ。



追記*エティエンヌ=ジュール・マレーの作品は基本的に全裸か全裸に近い人間の運動と動物(馬、犬、猫)の運動がメインでした(DVD3枚組のボリュームだった!)。カラックスがあちこちのインタビューで言及している『クロニクル』(ジョシュ・トランク)という映画は、カメラの背後に誰がいるか?という問題をPOV方式を利用して突き詰めた、とてもとても面白い作品だった。好きだ。


追記2*『ホーリー・モーターズ』は勿論「仮面」というテーマで語ることができる。このテーマにおいてはドニ・ラヴァンやエディット・スコブは当然として、エヴァ・メンデスのシーンが極めて興味深い。また「アレックス」というテーマで語ることもできる。オスカー氏がアレックスと名前を呼ばれたのは、どのエピソードだったか、その後の展開と共に面白い。カイリー好きとしては、あのネタにニヤリ。いくつもの見方ができる傑作だ。


追記3*『ホーリー・モーターズ』プレミア上映時のレオス・カラックス@ユーロスペースティーチインは以下の記事で。
http://d.hatena.ne.jp/maplecat-eve/20130131#p1


ホーリー・モーターズ』は本日より劇場公開!駆けつけられたし!
http://www.holymotors.jp/