『シーリーン』(アッバス・キアロスタミ/2008)


カンヌ国際映画祭60回記念につくられたオムニバス『それぞれのシネマ』のキアロスタミ篇を見た方なら『シーリーン』における実験的な作風はある程度予測できたのではないか。上映前にキアロスタミからの伝言ということで「日本の観客は世界一我慢強い。今回は30分だけ我慢してください。30分だけ我慢したらご褒美があります」というコメントが発表される。承知してます。とはいえ、まさか91分をアレだけで乗り切るとは!隣でノートを開いて一生懸命メモしていた女性(映画ライター?)は途中で深い眠りに落ちたようです。かくゆう私は先日のギー・ドゥボール『サドのための絶叫』で妙な免疫ができていたせいか全く眠くはならなかった。ただ、上映後、一部の方の大きな拍手喝采の傍らで、本当に考えさせられた作品でもあります。作品制作に2年かけたというキアロスタミの情熱的挑発に。


スクリーンに投影される映画館で映画を見る女性のアップは、そのまま、この作品を見つめる私たち観客の切り返しショットとしてある、というもっともらしい言い方は間違いではないと思うけど、彼女たちの瞳から覗き見る彼女たちの目の前に投影された映画=光の強さの前に、どこか頼りない。以下、考えたことを簡単にメモしておきます。


映画において人物の顔アップが劇的効果を目的として使用されるのならば、劇的効果と劇的効果を絶えず繋いだ場合、劇的効果は役割を失い、平均化を余儀なくされる。キメのショットの連続はキメにあらず。素晴らしい顔の連続で迫るキアロスタミの挑発は、劇的効果の平均化への批評ではないか?


この間見たギー・ドゥボール『サドのための絶叫』は視聴覚を完全に分断していた。あそこには見つめるべき対象すら不在だった。キアロスタミは『シーリーン』で女性の瞳の奥に画面を投射する。「視覚の物語」は女性の瞳の奥の光と、女性の顔という実存性にこそあるが、「聴覚の物語」は完全に私たちの見つめるスクリーンの外にある。『サドのための絶叫』とは全く逆の方法で視聴覚が分断されている。「聴覚の物語」が言葉を失った際、メロドラマによく似合う音楽が流れる。音楽の前で女性は涙をこぼす(ジュリエット・ビノシュ!)。女性の目の前にあるスクリーンの明滅と、私たち観客側のスクリーンの明滅が重なる。あらためて人や物が影でしかないことが剥き出しになる瞬間、儚さと恐れを感じいる。すべての光がなくなってしまったら、私たちの存在自体が消えてしまう。キアロスタミの挑発は人と物の存在、存続へ向けたギリギリの賭けだ。