『ライク・サムワン・イン・ラブ』(アッバス・キアロスタミ/2012)


この作品に流れる時間のすべてが、いとおしい。舞台を日本に移したところで、キアロスタミの「道」へのこだわりは変わらないどころか、むしろそれは多面性を極め、乱反射のごとくスクリーンに投射される。もう一度キアロスタミの言葉を思い出そう。「道とは存在であり、風であり、歌であり、旅であり、そして不穏である」(『ロード・オブ・キアロスタミ』)。おそらくこの作品に夢中になった誰もがベストショットに挙げるであろう、タクシーに乗った高梨臨が、東京駅のロータリーを旋廻するシーン。ここに響くのは、誰もが知っているタクシー車内の、ノスタルジーさえ誘う、あの独特の音響のみである。にも関わらず、このカメラのメロドラマ的旋廻+涙をこらえる高梨臨のアップの確実な繋ぎによって、ここには映画という装置の上でのみ浮かばれよう、大きなドラマが、大きなエモーションの流れが、ノスタルジーによって幻聴するメロドラマの交響楽さえもが、たしかに存在する。さらにここで大きく胸を打つのは、高梨臨がタクシーの運転手にもう一周リクエストするところだ。ツイッターでヘリドロさんが呟かれていたように、銅像の前で娘を待ち続けるお祖母さんを探す主観カメラは、高梨臨が探す視線のみならず、観客が共に探す視線でもあるというところだ(目を凝らしていなければ一周目のお祖母さんは、おぼろげな残像として映るだろう)。客席からスクリーンを見つめる側の人間が、劇中の登場人物と同じように「探す」、というアクションに参加せざるを得ない。ここが『ライク・サムワン・イン・ラブ』の画面が乱反射する、豊かさ、余白の大きな一因になっている。このあと高梨臨が口紅を塗るシーンの決意をこらえた美しさといったら!!!



「探す」ということに関して奥野匡が無言で語りかける身振りは、作品にとにかく多くの余白を与え続ける。登場したときから奥野匡のジェスチュアは、ごく親しい人だけが読み取れる身振りのような、一見「なにを伝えたいのだろう?」とこちらを考えさせる(=探さざるを得ない)アクションを繰り返す。ただ一つ確かなのは、奥野匡の身振り、言葉のすべてが、不穏を背景にした「ケ・セラ・セラ」のメッセージに繋がっているということだろう。奥野匡の部屋での高梨臨との会話のやり取りに、ホセ・ルイス・ゲリンの言葉を思い出した。「私は世界各地に散らばった類似性を探している」。高梨臨の営業トークかもしれない、この「似た者を探す」会話や身振りは、このシーンの最後にエラ・フィッツジェラルドの歌うテーマ曲が流れるとき、あまりにも美しい無時間の間を迎える。私に似たサムワン=誰か。好きな人/好きだった人に似たサムワン=誰か。が、誰かと恋に落ちる。高梨臨は一人、眠りに落ちる。すれ違ったまま、好きな人、好きになったかもしれない誰かが、すぐそばで眠りに落ちている。時を忘れた、夢のような片思いの無時間がここにはある。


奥野匡と加瀬亮とのやり取りで、どうしても忘れられない言葉がある。


「相手が嘘の答えを返してくると分かっているのに、質問をしてはいけないよ。経験が教えてくれるんだ。」


経験という言葉が何度か出てくるように(翻訳の相談など)、『ライク・サムワン・イン・ラブ』が向けるカメラには、老若男女問わず、その被写体に人生の強い失敗と喪失と、過ちと後悔への、強い強い影がある。たゆたうようにスクリーンと音響に身を任せる夢見心地の展開の中で迎える、あのラストは、だから人生における喪失、強烈な失恋に似ている。なぜならこの作品の被写体に多くの時間向けられてきた、カメラの位置を思い出すからだ。その破局と共に、再び甘美なテーマ曲が今度は外の世界に放たれる、というところに、人生の喪失と歓喜が、ただ同時に其処に在る、という喜び(これはやはり喜びなのだ!)を、ひたひたと感じ、胸がいっぱいになった。個人的には、あまりにも切実な、あまりにも親密な。好きだ好きだ好きだ、と心の中で(というところが大事)三度唱えたくなるような作品。


追記*もしかしたら、スクリーンに向かい合ってる最中、高梨臨に恋をしてしまったのは、奥野匡ではなく、自分だったのかもしれない。ところで黒沢映画の加瀬くんもそうだけど、加瀬くんが軽薄なクソヤロー演じるときって、たまらなく好きだ。ホント上手い!空手3段で中卒だぜ?(笑)。しかし本当に好きな作品。3度目も行っちゃおう。


追記2*二回目見ても、来ると分かっていても、思わず席を飛び上がってしまいました。