『ポンヌフの恋人』(レオス・カラックス/1991)


キネカ大森にて『ポンヌフの恋人』と『トスカーナの贋作』という凄まじい二本立て。レオス・カラックスが新作『Holly Motors』の撮影に入るこのタイミングで本作をスクリーンで再見できたことが嬉しい。どこか聖地に赴くような心持ちで劇場に向かったよ。久々に体験する『ポンヌフの恋人』には本当に胸が張り裂けそうになって久々に泣いてしまった。あと最近体験してきた諸々と思わぬ繋がりを見出せたのも嬉しかった。『ポンヌフの恋人』で恋人たちが水平線を見るために海に向かうシーンがある。逆光でシルエット状になった恋人たちが夜の浜辺を駆け抜けるとても印象的なシーンなのだけど、恋人たちは最終的に水平線に遭遇できず帰路につくことになる。ここにはゴダールが『気狂いピエロ』のラストにアルチュール・ランボーを引用したあの水平線ショットがない。「海と溶け合う太陽」がない。ましてや「永遠」の発見など初めから用意されていない。このことはカラックスがどこから映画/物語を始めているか、その野心的な志を考えるとき、とても重要なことに思える。



久々に『ポンヌフの恋人』とスクリーンで対峙しながら強く感じたのは、同じことはもう二度とできないだろうな、ということだった。聞こえないはずの演奏(地理的に遠すぎる)を聞いてしまったジュリエット・ビノシュが、全力で駆け抜けるメトロの地下道(ここで画面が前衛化する)〜ポンヌフ橋の上でデタラメなダンスを踊る二人〜ド派手豪快な水上スキーの一連のシーンを全身に浴びながら、本当に胸が張り裂けそうになってしまった。ここには無茶を省みない若さが、張り裂けんばかりに詰まっている。こんなことは当人たちでさえ二度と計画することさえできないだろう。カラックスもビノシュもドニ・ラヴァンも撮影当時(撮影開始は1989年)みんな20代だったのだ(最年長のカラックスが29歳。ドニ・ラヴァンなら今でもできそうな気もするけど・笑)。出来上がった映画とは、本当に一回限りのドキュメントなのだなぁと、スクリーンから放たれる過剰な運動に、ダイレクトに感情を揺さぶられた。折りしも、このときパリはフランス革命200周年を迎え、街には音楽が溢れていた(このことは映画でも触れられている)。ジュリエット・ビノシュはドア越しにいる元恋人に、拳銃を突きつけながら最後に一目だけ姿を見たいと請い、そして問う。「愛よ。断れないわ。」


トスカーナの贋作』については、初見時は「道」のプロセスに痺れるばかりで、キアロスタミの唱える「道」の最終項、不穏については、噛み砕いて言葉にすることができなかったのだけど、今回再見してみて、この「不穏」がトンデモないものなのだな、と戦慄さえ走った。ラストシーンのこと。「憶えていない」と語るウィリアム・シメルに対して、「すべて憶えている」と語るジュリエット・ビノシュの怖さ。ビノシュにお願いされてシメルは窓を開け、外の左側の景色を見る。次に隣の窓を開けて、同じように右側の景色を見る。二つの位置からの「対称」を視界に入れたあと、最後にシメルは鏡に正面から向き合うが、鏡はすでに消失しているのだ(つまりカメラと向き合っている)。キアロスタミは映画の構造そのものを剥き出しにする作品を撮っている。その野心が恐ろしい。


ポンヌフの恋人』&『トスカーナの贋作』驚異の二本立てはキネカ大森で6月17日(金)まで!


トスカーナの贋作』初見時の記事。
http://d.hatena.ne.jp/maplecat-eve/20110225


追記*ちなみに『ポンヌフの恋人』の字幕は訳が替わっていました。