『はなればなれに』(ジャン=リュック・ゴダール/1964)


アテネフランセにて「音楽家が解読する映画音楽 音と映像の作用/反作用」。本日はゴダール×菊地成孔氏。久々に菊地さんの講義を聴く(東大マイルス講義以来)。約2時間20分ずっと夢中になって聴いていた。話が面白すぎるッ。非常に充実した時間を過ごさせていただきました。『はなればなれに』は何度か見ているのだけど冒頭の口笛が「I will wait for you」(『シェルブールの雨傘』(ジャック・ドゥミ))だとは気がつかなかった。カフェでもう一度流れますよね。さてさてレポでその全貌をアップするのはとてもじゃないけど無理な話なので以下個人的に興味深かった点を何点か。


・音と映像の作用/反作用には、一方にミッキーマウシング(画と音のシンクロ率100%を目指すディズニーの手法)、一方にゴダール脱構築という両極がある、と。ディズニーの『白雪姫』(最初のやつ)は菊地さんの話によるとなんだか凄そう。


・「ジャン=リュック・シネマ・ゴダール」と共に「ミシェル・ルグラン(最後の?)映画音楽」と冒頭のクレジットに記されているのは一体どういうことなのか?ゴダールとルグランの喧嘩別れ(しかし最後のゴダール=ルグランは『未来展望』(1967)なのだからこれはオカシイ)という説と、クレジットにそう記すことでゴダールがルグランを試している/機嫌を伺っている=随分と粘着質なやり方(なにせ『女は女である』における音源のズタズタ切り貼りぶりという音楽家への侮辱)という説。ゴダールは音楽を作れる人に対する愛と憎しみで引き裂かれている、という菊地さんの仮説。
ゴダール=粘着質の天才。ルグラン=開放的な天才。ルグランはゴダールが音楽家に与える侮辱を特に気にしていなかったのではないかと。『女は女である』ではルグランの作った音楽の高いクオリティーと豊富なクオンティティー共にゴダールが受け止めきれず、違う曲を短い単位でしかもその効果も全く不明なまま適当に切り貼りしていて、かなり気持ち悪いことになっている、と。天才vs天才の奇妙で可笑しい関係。『軽蔑』(1963)の天才音楽家ジョルジュ・ドルリューは完膚なきまでゴダールに傷つけられた代表例とか。他、ルグランの開放的天才ぶりの例とか笑えて面白すぎた。しかし話が尽きなすぎて書けません。


・カメラ=眼球がモデルだけどマイク=鼓膜がモデルではない。音は耳以外の例えば指先からでも聴こえるもの。耳は嬰児の時から発達が始まるが、目はその後に発達するもの、、つまり最初人間の視聴覚は分断されていたわけで、20世紀に入り約25年間、映画がサイレント、音はレコードと分断されていたのちに、やがて視聴覚が統合される(トーキーの出現)という歴史は人間の成長過程と完全に一致しているというお話。そこから夢でO・S・Tが鳴るかという話に。シュールレアリストのオールドスクーラー、ルイス・ブニュエルがその最晩年にO・S・Tの一切ない映画を撮ったのは夢への回帰として興味深い(この日本当はブニュエルの映画を上映したかったのだそうです。権利切れで不可だったとか)とのこと。


・ある日蓮實重彦氏から『コロッサル・ユース』のDVDが届いたことでイメージフォーラムでのトークが決まったらしい。蓮實先生の遠隔操作?かも、とか。


いやーホント、スタンディングオーベイションものの講義だった。菊地さん素敵すぎる!明日はゴダール×ジム・オルークですよ。最後にマジソンダンスの動画を。