廣瀬純×菊地成孔@映画美学校 〜その一〜


個人的に大注目していた「廣瀬純×菊地成孔」の公開対談に行ってきた。名著『シネキャピタル』の著者廣瀬純の名前はカイエ・ジャポン時代から知っているという熱心な映画好きでなくとも、菊地成孔に寄せた文章(ユリイカ「特集*菊地成孔」号)など、別方面から興味を持った方もいる思う。フリーペーパー「シネ砦」最新号のロングインタビューの爆笑にして爆裂な面白さ(「増村保造の映画では開巻30秒で若尾文子が犯される。つまり世界はウンコだってことなんだ。」)も記憶に新しい。今回の「最終講義」は前回アテネフランセで行われた「音と映像の作用/反作用」の続編という位置づけながら、来たるべき『ゴダール・ソシアリスム』(12月18日公開)に合わせた刺激的なトークが繰り広げられるのではないか?と大きな期待を寄せていた。仏盤DVDで再見&予習して向かった。この講義の模様はUST中継されたらしいので、ご覧になった方も多いと思うけど、以下、備忘録として講義の内容を覚え書きレベルで記しておく(一度で書ける量でもないので全貌にも、そして正確さともほど遠いです。記憶力が頼りなので、おそらくところどころ話が飛び飛びになってしまうと思われます。本になるのを期待しましょう)。


菊地成孔大谷能生岸野雄一の3人によるトークで幕を開けた最初の30分で話されたことは映画における音楽の分業制について。リュミエール〜『グラン・トリノ』までの映画音楽史(前回の講義)のなかで、現代になるに従って劇音楽がどんどん減ってきていること(『グラン・トリノ』は2トラックだそうだ←気づかなかった!)、及び音楽がマルチトラック化することによって分業制自体がなくなってきている=専門能力が必要なくなってきていることが挙げられる。大谷氏が映画音楽を務めた『乱暴と待機』(富永昌敬)は台本を読んで予め音楽をストックしておくというサウンドバンク方式で、映像が出来上がった段階で音楽をクリックして当て嵌めていく云わばハーフ・サウンドバンク方式がとられたという話(ロジェ・バディム『大運河』はMJQによるサウンドバンク方式)。『レベッカ』(ヒッチコック)における音楽が、終始鳴りっぱなしにすることによって逆に音楽を意識させない(=音楽を止めてしまったら逆に音楽が意識されてしまう!)時代から、このように音楽がマルチトラック化した現在、それでも依然として映画はモノトラックに留まっている、という話。マルチエンディングというゲームの流れからきた「可能世界」「多元宇宙」(『アフロディズニー2』でも議題に挙がっている)が映画において可能なのかというレイヤーの話。たとえば古くはリチャード・フライシャーの『絞殺魔』がスプリット画面を提示したり、ナム・ジュン・パイクの実験もあったにはあったが(のちに廣瀬氏によってデ・パルマは最初期から画面分割を行っていたと指摘される。ジーバーベルクの正面投影の話も出る)、映画はモノトラックに留まっている。映画がダブ(素材抜き)の果てに、マルチトラック化=レイヤーの可視化に成功したら、それこそ多元宇宙、最強ではないか、という話。この話は専門能力を必要としないワンクリックという「選択権」の労働問題とも繋がっている。


ここから廣瀬氏(シネキャピタル)に向けた質問に向かう。たとえば職業(映画)音楽家が、「この映画には音楽は要らない(つけない)」と言ったとき、それでもクレジットされるときの価値について、というアクロバティックな質問。そこで生まれる剰余価値と労働能力についてシネキャピタル的にはどうなのか?という質問。


廣瀬氏はスカイプを使ってフランスから映像中継で登場(今回は帰国許可が下りなかった、残念)。まず自己紹介も兼ねてシネキャピタルのイメージの問題(ドゥルーズの新たな読み直し)について講義が行われる。1970年頃のゴダールパレスチナで映画を撮ること(お前たちは本当に味方なのか?)を証明するために寄稿した文の紹介。3つの映像(男、女、子供)単体では政治的価値はない。どんな順番で並べられるかでそれは決まる、といった内容。続いてジャン=ピエール・ゴランの「これは正しい映像ではない。単なる映像だ。」という言葉が紹介される。どんな映像も関係性によって意味を持つ。イメージはそれ単体では単なるイメージでしかない。単一のイメージがさも革命的だと謳われる(そう信じ込まさせる)ならば、それはスペクタクルの社会帝国主義と同義だ、と。


「トランシーバーと双眼鏡を持った1万人の子供たち」それ単体のイメージは単なるイメージに過ぎない。それが「農民の耳元で響く銃声」とモンタージュされることで革命は起こる。モンタージュの2つの機能とは、イメージ×イメージによって特別な価値を生むこと。また、それとは逆にイメージ×イメージによって特別なイメージを消す=脱スペクタクルすることにある。モンタージュにはイメージの平均化という作用がある。


(つづく)