廣瀬純×菊地成孔@映画美学校 〜その三〜


(前回のつづき)
シネキャピタル以後について。映画とは宇宙のすべてのイメージを取り込むことができる容れ物である。すべてであるからには、これは民主主義である。しかし映画が民主主義であったとして(逆に民主主義であるからこそ)、ここには選別と排除が生まれる。開巻30秒で若尾文子が強姦される(増村保造の映画)この世界におけるイメージの選別と排除。前田陽一の『喜劇家族同盟』(1983)が「イメージの選別と排除」についての映画であることが語られる。大金を手に血縁のない者同士が集まって擬似家族を形成していく『喜劇家族同盟』において、川谷拓三は「お前は(家族の)イメージではない」と最後まで排除される。「お前はイメージ通りだ」と家族として迎えられる=モンタージュされる中村雅俊と、最後まで家族になれない=モンタージュされない川谷拓三、というイメージの選別。前田陽一はこの作品で選別と排除に曝されたイメージの残酷さを描いているのではないのだろうか。


ここで廣瀬氏の講義が一旦終わり、休憩後、スカイプ中継の廣瀬氏を含めた4人のトークセッションに入る。まず講義では浮いたままになってしまった最初の質問への廣瀬氏の回答が、菊地氏が提議したゴダール『軽蔑』におけるジョルジュ・ドルリューの仕事についての質問と絡められる。菊地氏によると『軽蔑』がサウンドバンク方式だったのかどうか実際の経緯は調べがつかなかったのだけど、『軽蔑』でジョルジュ・ドルリューのトラックは結局M2(2曲)しか使用されていない。『軽蔑』は同じ曲(テーマ)をまったく違うシーンで繰り返し使っている。ゴダールによる「ブレヒト的異化効果」と囁かれもしたこの楽曲使用法において、ゴダールは明らかに労働(能力)を搾取してはいないだろうか?という質問。


廣瀬氏は『軽蔑』におけるゴダールの搾取を認めながらゴダールの言葉を紹介する。「映画とは犯罪と魔術である」。映画は生身の人間の価値を搾取する構造を持っている。つまり犯罪から出発している。犯罪を魔術によって特別な価値にしてしまう。映画とは悪所である。ここでお蔵入りした『勝利まで』〜『ヒア&ゼア・こことよそ』の間の空白の5年間について話が進む。パレスチナで撮った兵士たちの訓練や会話を『勝利まで』とタイトルを打って制作したものの、「黒い九月事件」によって、撮影済みの被写体である彼らが悉く死んでしまった。ミエヴィルとの共同作業によって『勝利まで』は『ヒア&ゼア・こことよそ』として再構成されるわけだけど、ゴダールがこの間に何を考えていたか?死んでしまった兵士たちをイメージとして搾取してしまった自分を責めていたのではないか?彼らの残した言葉に字幕を付けることでゴダールは自分たちが搾取してしまった分を彼らに還元しようとする。映画とは出発点が「悪」である故に、その借りを返さなければならない。そしてそれは到底解決不可能な問いなのだ。ゴダールは常に解決不可能な領域でアポリア化することで搾取したイメージを返そうとしている。「イメージの搾取に敏感でない映画、搾取したイメージを別にいいやと還元=闘争しようとしない映画は(僕にとって)関係のない映画だ」と廣瀬氏。


『軽蔑』については音楽の疲弊=労働過多について話が及ぶ。一方でゴダールの「共産主義化」が音楽家と縁を切ることと一致していたと指摘する菊地氏。ゴダールにとっての職業音楽家が、アンナ・カリーナミシェル・ルグランと同じように闘うべき「敵」となった。商業映画復帰後のゴダールはECM音源との特別な契約やフランソワ・ミュジーという「録音技師」との仕事に移行する。


と、ここで菊地氏次の仕事のためタイムアップ。結局双方の対話の噛み合わせは時間切れと初対面ということもあってか平行線だった印象は拭えないものの、結果的に『ゴダール・ソシアリスム』に繋がる話になっていたかな、というのが個人的な印象。廣瀬×菊地対談は未定ながら今後も機会があるようなので駆けつけたい。最後に廣瀬氏から『シネキャピタル』は超自信作なので読んでね、とのご挨拶。


追記4*「シネキャピタル以後」として面白い発言を書き忘れたので追記。この搾取したものを返還する闘争のプロセスがある一方で、「映画はいい人であり続けることに疲れている」という発言。映画自体がグレる。その文脈からたとえばジョン・ウォーターズの映画を擁護できないだろうか、という可能性に少し触れていた。


          −−−−−−−−−−−−−−


さて、『ゴダール・ソシアリスム』では同じカメラ位置(一見同一ショットのように見える)で男と女がカメラの前で入れ替わりに相手に向かって話すシーンがあるのだけど、それぞれで音の録り方が異なる。それは映像による切返しを徹底して禁じたゴダールによる「音の切返し」のように思える。猫の鳴き真似は「Miaou」「M・i・a・o・u」。またこれらのシーンに限らずマイクに入るノイズを切らずにそのまま残す、または過激にブーストさせる、という描き方。これはid:godardさんや蓮實重彦氏の指摘するように通常の映画において「捨てられる音」を敢えて救う試み、廣瀬氏が言うところの映画が搾取したものを、それが還元不可能であるにも関わらず返そうとする闘争と救済の果てのアポリア化と通じている。


個人的に『ゴダール・ソシアリスム』で気になって仕方ないのは(いやいや、たくさんあるのだけど)、マドンナの「マテリアル・ガール」やチェット・ベイカーよりも、CDJを手前に戻したときに聞こえるようなスクラッチ音の挿入。


以下、『ゴダール・ソシアリスム』日本版公式サイト。及び『ゴダール・ソシアリスム』公開記念「ゴダール映画祭」公式サイト。
http://www.bowjapan.com/socialisme/
http://www.bowjapan.com/godard2010/index.html


追記*『鳥』のバーナード・ハーマンは1曲も作曲しておらず「サウンドコンサルタント」のクレジットになっている。労働対価はプロデューサーと紹介料として支払われた、という話も対談のなかであった。


追記2*「音と映像の作用 反作用」第1回については『ユングサウンドトラック』に収録。今回は3回目の講義。個人的には『アフロディズニー』上巻の「見立て」の面白さを強く奨めたい。


追記3*廣瀬氏の「『鳥』は本当は僕が言ってるような映画じゃあないんだけど・・・。」には爆笑した。『シネキャピタル』はとっても面白い本です。

シネキャピタル

シネキャピタル

ユングのサウンドトラック 菊地成孔の映画と映画音楽の本

ユングのサウンドトラック 菊地成孔の映画と映画音楽の本