『惑星のかけら』(吉田良子/2011)


2008年の桃まつりで上映された前作『功夫哀歌/カンフーエレジー』は、上映後の塩田明彦監督の爆笑トークと共に個人的にはとても忘れがたい作品で、上映中は勝手に笑いのツボに入ってしまい、特に謎の白装束軍団がスローモーションで登場するショットに爆笑、敢え無く沈没&拍手したのだった。というわけで、あの吉田良子監督の新作とならば、ということで銀座シネパトスに行ってきた。予告編からは分からなかったのだけど、『惑星のかけら』は「視線」という映画のもっともプリミティブな動機に忠実に作られた志の高い作品だった。個人的には渋谷という街は、まったく映画に向かない空間だと思うものの(たとえば『Tokyo!』という作品でカラックスはこの街を撮ることを拒否したも同然だった)、『惑星のかけら』は、ただひたすら歩き、誰かを見つめる、それだけあれば映画は成立するんだとばかりに、敢えてこの非映画的な街にカメラを向ける。その清々しいほどの決意にまず感銘を受ける。夜を彷徨う映画。独自のタイム感でステップを踏むように歩く徘徊少女=柳英里紗と、ひとりの女性をひたすら見つめる渋川清彦の終わりのない追跡、そして視線の対象=河井青葉さえもが、ここでは帰るべき家を知らない迷子のように渋谷の夜を彷徨い続ける。この3人が各々の視線の意図を越え、三つに連なる星のように並ぶショットがある。どこにでもある路上を捉えたこの美しい星座を形作るようなショットには、少女の抱える答えのない問い=一緒にいるということ、へのヒントがあるような気がした。また、やさしい「揺れ」が導くあの二人だけの夜の静けさは、ふとしたアクション=リアクションによる親密なノスタルジーが、コスモポリックに時を止めてしまう、ということを思い出させてくれる。このショットにおいて、もはや二人のいる/いた場所は何処でもないのだろう。シネパトス特有の上映中に聞こえる電車の音さえも、ここでは(いや全篇に渡って)魔法のように機能していた。体の外にある音と体の内にある音の間に心地よい齟齬が生まれる。こういうとき、時間は止まってくれる。いつまでも終わらないでほしいと心から願ったショットだった。渋川清彦が投げた視線と同じように、少女の口ずさむ歌は少女という個体を離れ、やがて歌自体が渋谷の街を徘徊し続けるはずだ。愛したくなるような作品。


『惑星のかけら』は今週末(12/16)まで。
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