『ユキとニナ』(諏訪敦彦、イポリット・ジラルド/2009)


日仏学院にて来年1月に恵比寿ガーデンシネマにて公開される『ユキとニナ』の先行上映。上映後に諏訪・ジラルド両監督のティーチイン付き。イポリット・ジラルドはデプレシャンの近作や『レッド・バルーン』(ホウ・シャオシェン)における演技が記憶に新しいところ。両監督共、ユーモアを交えながらモノ作りへの情熱に根ざした知的な言葉の選び方が印象的だった。さて作品の方は『2/デュオ』以降の諏訪監督のフィルモグラフィーの中でもっとも開放された作品といえる。ひとえにユキとニナという二人の少女がとびきりカワイイということに尽きるのだけど、誤解を承知で言えばかなりポップ。二人の少女がどのくらい魅力的に撮られているかといえば、ジャック・ドワイヨンの『あばずれ女』におけるクロード・エベール、『家庭生活』におけるマラ・ゴイエのレベル。諏訪演出の応用/到達と瑞々しい発展。ネクスト・フェアリー・テイル、新たな「少女映画」の誕生という、期待以上の出来栄えだった。



少女ユキがフレームに置き去りにされることで孤独な影を浮かび上がらせるパリ篇が格別に素晴らしい。両親の離婚を阻止するため親友ニナと陰謀を繰り広げるユキ。コドモとオトナは離される。少女たちの陰謀の末、ユキの母(日本人)が涙を流す手紙のシーンはいつまでも見ていたい慈しみに溢れたショットだ。ユキが深夜に爆音で目覚め、リビングで「一人クラブ」状態で踊る父を発見する一連の幻想的ショットの充実。これは後々森に迷い込む少女のフェアリー・テイルの伏線だったのかもしれない。思い返せば、手紙の差出人は「愛の妖精」だった。脚本上のユキとニナの運命は予め宿命付けられていたのだね。しかしユキとニナはその無邪気な身振りによって物語やフレームという宿命を軽々と越えていってしまう。親友ニナが背伸びした呆れた口調でオトナの台詞をオウム返しする「愛が終わった」という台詞、「ニャー!ニャー!」と猫マネでいがみ合うユキとニナの喧嘩。日本篇におけるユキと日本のコドモの交流。パリを歩くユキと日本を歩くユキとは少女の本能に関わるかもしれない決定的な変化がある。


ユキを演じた中性的な少女ノエ・サンピは「どうすればオトナに気に入られるか」という欲がないところがオーディションで選んだ決め手だったと諏訪監督は言っていた。ノエちゃんは脚本にある「転ぶ」「泣く」に「こんなことはできない」と進言、撮影の過程で監督に物語の行き先を変更させたのだそうだ。「撮影というひとつの旅」というジラルド監督の言葉が沁みる。観客からの最初の質問はフランス人のとても小さな男の子で「何故ユキは○○に行ったの?」(ネタバレだから自粛)の答えにジラルド監督は「子供は意外と合理的なものだ」と会場の笑いを誘い、諏訪監督は「キミは正しい。キミの自由な考えと共に映画は出来上がる」と感動的なお答え。諏訪監督とジラルド監督の視線は面白いくらい一致している。スクリーンを観客の自由な色使いで染められるキャンパスのように思考しているという、余白の作り方が。とても共感できる姿勢だ。


この珠玉の作品に一つだけ難癖をつけるなら、日本篇がエキゾチックな情緒に流れすぎなんでないの?ということで、もっと”東京のユキ””都会のユキ”を見たかったなーと。ただそんな物言いもユキとニナのキュートな身振りの前に降伏してしまった。
以下『ユキとニナ』の公式サイト↓
http://www.bitters.co.jp/yukinina/