『島の探求』(ルドルフ・トーメ/1979)

赤坂大輔氏によるレクチャー・シリーズ『New Frontier New Cinema』@UPLINKにてルドルフ・トーメ。3時間15分。果たしてルドルフ・トーメ初体験がこれでよかったのかどうかという疑問は大いに残るものの、ルドルフ・トーメストローブ=ユイレ以降のドイツを中心にした映画作家たちへの興味を何倍にも増大されてくれるような興味深い作品だった。ネット上で軽く調べたところ赤坂氏が講義で言及していた「ドイツ映画大回顧展」は1984年。代表作『ベルリン・シャーミッソー広場』の最近の上映は2005年なんだそうだ。アテネフランセでの『タロット』の上映は行きたかったけど都合がつかなかったのを記憶している。ドイツではいろいろとDVD化されてるのも知ってるのだけど、『島の探求』だけはおそらくこの先のソフト化や上映は難しいと思われる。なにせトーメ自身がTV放送を録画したDVD−Rしか持っていないんだそうな。


帰りの電車で資料(充実の内容!)を読みながら、嗚呼、この言葉は『島の探求』という映画をもっとも言い表しているな、と思う台詞が訳されていたので以下に引用。


「私たちのように玩具を所有するというのとは違うわね。何かを組み立てることがすでに楽しみであり、組み立て終わったら捨ててしまう。」


最後の一文が重要。楽器や衣装や食事がつくられる日常/非日常のプロセスと、実際に道具が使われる演奏や祭事の有機的な繋がりが、あくまでカメラの前を通り過ぎるものとして描かれているというか、物質や行いの唯物性によって有機的な繋がりを無化してしまうような。


ほとんどのショットをフィックス(島へ向かう船、ファーストショットの素晴らしさ!会話もベーシックな切り返しを多用)で撮ることによって、ドキュメンタリーとフィクションの壁は予め融解している。赤坂氏の指摘するムルナウ/フラハティ(『タブウ』。資料によるとトーメ自身がインタビューで語っている)を想起させる「水」との親和性。手榴弾のようなものを投げ込み、水中の魚を殺し、槍を持ったコドモたちがハイエナの如く一斉に狩りのアクションをする流れがスリリングだった。


レクチャーではルドルフ・トーメという作家のバックグラウンドが語られる。時間の都合で本題である「ジャームッシュ、マッケンドリックそしてトーメ『島の探求』」まで行けなかったのがちと残念。ところで、映画にしろ音楽にしろ、優れた批評家は密輸業者のような側面を兼ね備えていると勝手に思っているのですが、赤坂氏はまさにそれですね。新たな映画の地平を開拓。次回も期待。