『THE HOLE』(ジョー・ダンテ/2009)


なんとなく正月映画ぽいのがいいな、と新年一発目に選んだのはジョー・ダンテの新作。ジョー・ダンテの新作すら日本に入らなくなってきていることは本当に憂うべき事態なのだろうか。イエス。『グレムリン』は言わずもがな、あの素晴らしい『マチネー』の作家だぜ、ということで『ルーニー・テューンズ:バック・イン・アクション』以来の劇場映画への復帰。ジョー・ダンテは再びジャンルとしての「キッズムービー」で帰還する。こんにちでは殆どなくなってしまったかのように思えるクラシカルなまでに80'sな「ファミリー・パニック」ものを表面に装いつつ、ジョー・ダンテの主題をさり気なく構築していく手腕は相変わらず冴え渡っている。処女作『ハリウッド・ブルバード』(個人的に偏愛している)からジョー・ダンテは常に「(小さな)戦争」を描いてきた。一見単なるキッズムービーとして見過ごされがちな本作(実際、海外の批評でも散見される)において、ジョー・ダンテはやはり「戦争」を描いている。ただその「戦争」の可視化は、より現代的にアップデートされているように思える。『THE HOLE』において「戦争」は見えない。劇中、執拗なまでに繰り返し問われる「怖いのか?」という台詞によって、それは恐怖の構造と共に表象化される。開けてしまった底なしの「穴」についてクリーピー・カール(ブルース・ダーン!)の語る、「暗闇がやって来る」という言葉(詩的ですらある)。地獄へ続く「穴」の住人との闘い、転じて「共存」が、それを表わしている。ジョー・ダンテはかつての精神分析×映画の巨匠に倣うかのように、それらを鮮やかなギミックを通した「克服」として描く。



「水の中の太陽」ならぬ「水の中の怪物」のシーンやルーカス少年にとっての恐怖=ピエロの人形のシーンに代表されるように、恐怖の気配を描くカメラワークが冴え渡っている。同時に、一目でジョー・ダンテ作品の住人だと判別できる主役3人(キュート!)のそれぞれのチャレンジと付随する見事なカメラワークは、最初から一貫して他者という恐怖の境界線に向かっていることが分かる。ディーンとルーカス兄弟は田舎町に引っ越してきたストレンジャーだったし、彼らが隣家の魅力的な女の子ジュリーという他者と出会うシーンでさえ、コミカルでゲーム的なチャレンジとして簡潔な演出で描かれている。そして何気なく挿入されるプールのシーンでさえ繰り返されるのは「怖いのか?」という問いだ。クリーピー・カールがまるで銃撃にでもあったかのように室内の照明を割られ、存在自体が消えていく様は興味深い。また、恐怖を克服する彼らが少年少女だということは、より重要だろう。怪物は少年少女にしか見えない。老人クリーピー・カールを襲ったのは怪物ではなく闇なのだ。この90分弱の作品でジョー・ダンテの語り口は物語をあっという間に核心へ向かわせながら、幾度も同じことを繰り返している。その構築の妙技に脱帽する。



最後に落下ということに触れておきたい。ジュリーと数年前に死んだはずの少女(しかし老いている!)が「和解」する遊園地のシーンの素晴らしさや、クライマックスの時空間の捩れた世界におけるディーンの闘い、克服のシーンに共通する素晴らしい落下。高いところに梯子で向かう少年少女の運動とクラシカルな趣きすら感じさせる異空間への落下の描写。それらはもしかすると3Dとして撮られた本作の最大の見所かもしれない。昨今の3D映画ブームの際、個人的に最初に思い浮かべたのは何を隠そうジョー・ダンテのことだった。ウィリアム・キャッスルのギミック映画を原体験とする彼こそが、この新しいのか古いのか、いかがわしささえ感じさせる「新技術」に向いてると思ったわけ。ジョー・ダンテ自身が語るように本作の描写の一つ一つは現代のキッズにとって刺激が足りないのかもしれない。でも、とてもクラシカルに撮られた作品だからこそ、この作品を本来の3Dで見てみたいという欲望にかられる。そこには映画といういかがわしいギミックが剥き出しにされているのかもしれない。『ハリウッド・ブルバード』のゴジナくんみたいなさ。そう、ルーカス少年はTVでゴジラの映像を見ていたのだ。ジョー・ダンテ此処にあり。


以下、以前『マチネー』について書いた拙文をリンクしておきます↓
http://d.hatena.ne.jp/maplecat-eve/20090808


追記*ジョー・ダンテだと『トワイライト・ゾーン』の女の子がアニメの怪物に食われる短編も偏愛してる。