『ソーシャル・ネットワーク』(デヴィッド・フィンチャー/2010)


米版の予告編でレディオヘッドの「CREEP」がゴスペル・ヴァージョンで流れているのを見たときから本作のことが楽しみで仕方がなかった。とはいえ「CREEP」という曲が特別に好きというわけではなく、少年〜青年期特有の触れられた瞬間に怒りを内に込める方法すら分からず、やがて泣き崩れてしまうような、あの透明な攻撃性に対する祈り=ゴスペル=音楽が、フィンチャーの映像と見事な相乗効果をあげてる予告編だったのだ。結果から述べれば、「祈り、光、続きをもっと聞かせて」と歌う、その続きがここにはあった。たとえ『ソーシャル・ネットワーク』という作品が二度と取り返しのつかない過ちの「続き」を残酷に綴った映画であったとしても、ここには出会いの不可能性と同じくらいの可能性が広がっている。その広大さはときに人を途方に暮れさせる。ときに狂わされ、ときにウンザリとした気分にさせるだろう。『ソーシャル・ネットワーク』はガールフレンドに突きつけられた「サイテー」の烙印から始まっているのだ。I wanna have control.I want a perfect body.I want a perfect soul.



前作『ベンジャミン・バトン』の最も感動的だったシーンを思い出そう。ブラッド・ピットケイト・ブランシェットが年齢のすれ違いを起こしながら、お互いに一番ジャストだと感じた年齢のタイミングで鏡=スクリーンに向き合う。この瞬間をいつまでも記憶に留めておきたい、と沈黙の内に鏡に収まるあのシーン。まるでそれが世界の全てとすれ違ってしまうことを避ける唯一の抵抗であるかのように、恋人たちは鏡に向き合う。『ベンジャミン・バトン』はファンタジーのような運命のいたずらだった。が、『ソーシャル・ネットワーク』はより現実に向かっている。自らの脆さによる(無)意思によりしくじってしまった恋人や友達への攻撃(口撃)はときに取り返しがつかない。(無)意思は悪ではない。コントロールが効かないのだから。未熟な魂なのだから。と同時にそれは人に深い傷を負わせる点において悪に他ならない。どうして大切な人に面と向かって悪口を言ってしまうのか、それがコミュニケーションの手段だと勘違いしていた大火傷のような経験は多かれ少なかれどんな人にもあると思う。ここで悪への問いが発生する。『ソーシャル・ネットワーク』においてデヴィッド・フィンチャーは、善悪の境界を壊すために敢えて造形のデフォルメ化を図る。題材を単純化させることの危険を回避しつつ核心の周縁をなぞるかのように複雑化/複層化させる、という見事が芸当がここでは披露されている。「(やがて対立することになる資産家の息子ウィンクルボス兄弟が怒るのは)彼らが人生で生まれて初めて自分の思い通りにならなかったからだ」という言葉が象徴するように、ほとんど意味を成さないどうでもいい台詞の中に、このような核心を突く単純な発言を一言挿入させる方法は最後まで反復される。それはときに馬鹿馬鹿しく、ウィンクルボス兄弟の「俺たちは190cm100kgだぜ(あいつに負けるわけない)」という台詞のデフォルメ化されたユーモアにも繋がっている。ナップスター創始者ショーン・パーカー(ジャスティン・ティンバーレイク!)がまるでロックスターのように撮られていることにも注視したい。明らかな単純化だ。にも関わらず、ショーンはとても魅力的な人物だと映る。それは彼もまたガールフレンドにフラれた「しくじってしまった」ヤツだから、というそれこそ単純化された理由のことではない。ミラーボールの光に照らされる彼の輪郭がそうさせる。マシンガンのように炸裂するトークの音声が彼をそうさせる。あくまで映画の表象の問題なのだ。ショーンは言う「大人たちが欲しいのは僕たちじゃない、僕たちのアイディアなんだ」。ショーンによって搾取とそれに対する抵抗の問題が暴かれる。フェイスブックに広告を載せることに対して主人公マーク・ザッカーバークは最初から「クールじゃない」と否定していた。何がクールで何がクールじゃないかを理解できない大人を信用しろという方が難しい。ただし広告主を探して奔走する人物がマークの唯一の親友だということが物語の複雑化に一役買っている。彼らはお互いが敵ではないことを対立しても尚、十分に理解している。



この映画では切返しが多用される。冒頭の長い長いガールフレンドとの口論に始まり、マークが腹いせで作ったサイト「フェイスマッシュ」(ハッキングにより得た大学の女の子の顔写真に好き勝手に点数を付けていくという悪趣味サイト)における二つの顔の並置もまた然り。この映画で主人公マークはそもそも点数を付けられるはずのないものへの留保つきの選択に常に迫られている。こいつのここはいいけど、ここはダメだという選択。それは友達や恋人に出会える/出会えない、というフェイスブック、に限らず現実社会の不可能性/可能性に触れることを意味する。しくじってしまった過去へのとことん絶望的で途方に暮れた希望をもった『ソーシャル・ネットワーク』のラストショットは、ついに核心の手前まで迫り、そのことだけに奉仕する。それはガールフレンドに「サイテーよ!」と言われた物語の「続き」、烙印への途方に暮れた切返しなのだ。つまり「I'M A CREEP」。ひさびさに蒼白い情熱が危険なくらい透き通った作品に出会えた。『イカとクジラ』、『ゾンビランド』に続きジェシー・アイゼンバーグの存在は賞賛しても賞賛しきれない。新年一発目の映画館でこの作品に出会えたことを本当に幸福に思う。


追記*冒頭の会話劇から大学への外景に抜けたり、挿入されるボートのスーッと滑るような滑らかな運動など、前作あたりから感じていたフィンチャーの外景ショット等の素晴らしさがこの作品の透明感に貢献していたように思う。大好きな『ゾディアック』を抑えてフィンチャーの中で一番好きな作品になりそう。回想形式という点をより注視したいという目的もあるけど、とにもかくにも早くもう一回見たい!以下、予告編。


追記2*『ベンジャミン・バトン』の例を挙げたのは、『ソーシャル・ネットワーク』もまた世界と自分(たち)のすれ違いを描いているから。「僕たちはいつだって間に合わない」というテーゼについて。そう考えると『ベンジャミン・バトン』は間に合ってるんだよね。祈りのようなやさしさがある。『ソーシャル・ネットワーク』における非情さも同様だ。