『ヴィオレット・ノジエール』(クロード・シャブロル/1978)


輸入DVDでクロード・シャブロルイザベル・ユペールヴィオレット・ノジエール』。ブラック・ヴィオレット。本来なら小さく留まるはずだった女性の犯罪が、最終的に三面記事の格好の餌になろう外部に曝されることで、彼女の身体が、世界の「悪」とされるものに対する抵抗の意思を一身に背負う、という点で、シャブロル映画のヒロインは過激なレジスタンスのように思える。彼女らは闘う。が、それは正義のためではなく自分と世界の繋がりに賭けた切実な、そして自分の力の及ばないことを動物的に理解した上での始まりだ。彼女らに共通しているのは「はじめに悪ありき」だ。尚且つ、彼女らはその「悪」とされるアクションを重ねていく。理不尽な社会vs一人の女性の構図、ではなく、一人の女性の個人的な犯罪と括弧付きの(犯罪)の間への揺さぶりが、外部への挑発的な問いになる。『ヴィオレット・ノジエール』はイザベル・ユペールの身体が、メイクが、その衣装(!)が、抵抗の意思に貫かれた問いそのものだ。ブラック・ヴィオレット。実在のヴィオレット・ノジエールにアンドレ・ブルトンをはじめとするシュールレアリストたちは霊感を得た。犯罪を賞賛するのではない。犯罪から問いを生むことだ。ヴィオレットが場末のバーで聞いたナポレオンを讃える唄は、事件後に民衆がヴィオレットに向けた市民歌と呼応している。レジスタンスを描いた『境界線』の最後の唄を思い出してもいいだろう。これらは”すべて同じこと”(『悪意の眼』)なのだ。そしてヴィオレットがウットリと聞いていたスウィートなメロディーは二度と流れることはない。



殺したはずの母(ステファーヌ・オードラン)と直に肌が触れることさえある裁判シーンの苛烈さ。牢獄で相部屋となったベルナデット・ラフォン(!)にそれでも「母が好きなのかもしれない」と告白するヴィオレットと、法学生に貢ぎすぎたヴィオレットをホテルのメイドが慰める二つのシーン。オードランとユペールは決して常に敵対しているわけではない。前半にオードランとユペールが少女のように抱き合ってじゃれる多幸感溢れる(且つ不穏な)シーンが活きている。法学生の描き方が夢に出てくるという以外、彼自身特にどうでもいい男としか描かれていないという、キャラクター造形の絶妙な輪郭線が伏線として活きている。だからこそメイドの「あなたは愛しすぎたんだわ、愛しすぎたのよ」という慰めの小さな声は、ホテルの一室を虚無的な響きで満たすだろう。牢獄に響く告白とホテルの一室の声。しかしそれらは切実だ。ヴィオレット自身の行為は、やはり個人的な愛のための犯罪なのだ。その個人的な犯罪が大きく社会に搾取される、ということが裁判室に置かれた”かつてマリー・アントワネットが座った椅子”に表されている。つまりヴィオレットは偶像になる、あるいは偶像にされる。かつて女友達といたずらで汚した彫像のように、その愛は人々によって歪められる。『ヴィオレット・ノジエール』を作ったシャブロルや、それを体験する私たちも同罪だ。『ヴィオレット・ノジエール』はイコン化への過程を描いている。路面電車に立つヴィオレットがマネキンのように微動だにしなかったは、シャブロルがそのことに意識的な、誠実な映画作家である証左に他ならない。間違いなくシャブロル最高傑作の一本!


追記*牢獄のベルナデット・ラフォンは『気のいい女たち』のあの彼女なのか、はてまた『ダンディ』の気儘に犯罪を犯していそうな彼女なのか?それにしてもイザベル・ユペールの素晴らしさよ。ユペールがあの眼差しを投げるだけで映画の格はワンランク上がるというのは30年前から変わらないのだね。『ホワイト・マテリアル』も見直してしまった。


追記2*現在発売中のキネマ旬報最新号に山田宏一氏と大久保清朗氏によるクロード・シャブロル追悼文が掲載されています(ギリギリでスミマセン)。ここでなんと大久保さん翻訳による『クロード・シャブロル自伝(仮題)』刊行予定の発表がされています。シャブロルに関する纏まった書物というだけでも待望なのにシャブロル自身の言葉ですよ。『ヴィオレット・ノジエール』についてどう語っているのか。個人的にも興味が尽きません。詳しくは大久保さんのブログをチェック。
http://d.hatena.ne.jp/SomeCameRunning/20101120