「ペドロ・コスタ特別講座」@東京造形大学

東京造形大学にてこの度客員教授に就任したペドロ・コスタによる特別講義。いろいろと想定外のことが起きたので30分ほど遅刻したものの(12号館を一緒に探してくれたムサビの学生3人に感謝)、優れた教育の現場を目の当たりにしたことに感銘を受け、またこの講義自体が持つ親密な距離感(ペドロ・コスタをグルッと囲むように並べられた椅子)に童心に帰ったかのような楽しさを覚えた。教室に入るとペドロ・コスタの独演が続いていて、立ち見の私に諏訪監督がサッと椅子を差し出してくれた。予定の90分を大幅に延長して150分近く続いた今回の講義。今回の特別講義は事前に諏訪ゼミで話し合われた内容(「生活と制作」)をペドロ・コスタと参加者へ向けた「手紙」として始められた。30分以上遅刻した上に、例によって記憶に頼った書き方になるけど強く心に残った言葉を中心にレポしておく。以下のレポはコスタの言葉に若干編集を加えたものと考えていただきたい。ペドロ・コスタはたった一つの信念を言葉を変え何度も強く言っていることに気づく。そのことに感動する。またこれらの言葉は間もなく公開される大傑作『何も変えてはならない』を考察する上で大変参考になるだろう。そしてそして個人的には諏訪監督が最後に残した言葉に涙が出そうになった。


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以下に「手紙」の引用。続いてペドロ・コスタの言葉に入ります。

私達学生は、今回「制作と生活」というテーマを掲げ、まず自分達の中で議論をしました。すると議論の中で様々な意見、考えが出てきました。例えば「卵をフライパンに落とすような些細な日常の事と、何かを制作するという事は常につながっているはずだ。」という意見があり、「本来、作品を作ることは仕事でもあり、生きるということと隣り合わせなもののはずだが、それは一般的に区別されやすい。」という意見があり、一方では、「映画において、監督が現場に生活を持ち込む事はつまり、プライベートな部分を見せ、プライベートな部分で役者やスタッフと接するということであり、それは時として危ういことでもある。」といった意見があがりました。私たちはこの議論を通す中で、このテーマが映画だけではなくあらゆる「制作」に関係していることを再確認しました。同時に、この問題についてはっきりとした答えを見つけ出すことも出来ませんでした。今回の講座では、監督と私たち学生との対話を中心に展開していこうと考えています。その中で、上記した学生たちの考えも踏まえて様々な方向からこの問題にアプローチし、監督の意見をお聞きしたいと考えています。

・映画とはお金である。つまり映画とは汚い仕事だ。汚い仕事とは地獄に他ならない。そして地獄とは私たちが生きている世界そのもののことだ。多くの映画作家がお金(注*権力と言い換えることも可能)の問題に悩まされている。プロデューサーの問題。自己主張が激しい役者の問題。ただし映画は芸術的な問題から立ち上がるものではない。生活という創造行為の中からこそ立ち上がるものだ。


・生活の中の創造行為とは政治だ。つまり「よりよく生きる」ということだ。このことを確かめたいのならば、ロベルト・ロッセリーニの『殺人カメラ』を見てみるといい。同じことを音楽でやったギタリストがいる。ウディ・ガスリーのことだ。


・(「映画と物語」の関係への質問に)興味深い質問だ。これは映画作家にとっても、映画を知的に見る人にとっても、映画とは関係ない人にとっても問題になる。私自身は自分の頭の中にあることよりも他人が生活の中で創造していることの方がより想像力が豊かだと感じる。


・以前の私を例えて言うなら「スタイリスト」だった。でも今は「テーラー(寸法を測る人)」だ。


アヴァンギャルドには反対の立場だ。敢えて言うなら映画は保守的な方がいい。むしろ保守的なものの側から美しさは生まれる。そのことを実証しているのが、ジョン・フォードロベール・ブレッソン、みなさんご存知の小津安二郎の映画だ。彼らのフィルムには(世界の)すべてがある。


・ルーティンの作業の方が自分の日常生活より想像力を生むと感じる。


・今日では人々の意識は散漫だ。人々の意識が散漫であることと戦わなければならない。散漫であることとは「裏切り」のことだからだ。「楽譜」に忠実にならなければならない。


・(「ドキュメンタリー/フィクション」の質問に対して)ドキュメンタリーとフィクションを分けて考えることには意味がない。映画はまだ有史以前ともいえる。「朝起きてトイレに行くこと」についてゴダールさえ撮っていない。いかに撮るか。(生活=政治=映画の論理において)映画にはあらゆるヴァリエーションが存在するはずだ。


・カメラの前とカメラの背後で等価の関係を築くことにこそ興味がある。


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これらの言葉を聞くと新作『何も変えてはならない』がペドロ・コスタ流作法の総決算的な位置を占めていることに気づく。「スタイリスト」からカメラという「鏡」を介し対象と自身を等価で結ぶ寸法を測る「テーラー」となった軌跡。その軌跡そのものが『何も変えてはならない』のすべてだとすら思えてくる。


「楽譜」の話は興味深い。脚本を捨てたにも関わらず映画には楽譜が存在することの相克というか。互いに拮抗し合う二つの力の関係性というか。『何も変えてはならない』でジャンヌ・バリバールがリズムを探すシーンがある。バリバールのリズムはギタリスト=ルドルフ・ビュルジェの指を鳴らすリズム、足踏みのリズムに導かれるのだけど、バリバールのリズムは徐々に微妙にズレていく。自己のリズム、体内のリズムの「発見」が描かれる。ここでは二つの拮抗する力のせめぎ合いが新たな力を生む。『何も変えてはならない』においてルドルフ・ビュルジェこそが「楽譜」なのだろう。


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最後に諏訪監督の言葉を紹介したい。


「人生には一生をかけて携えていく言葉がある。その言葉の意味がよく分からなくても携えたくなる言葉というものがある。一生をかけて携えていく言葉。今日みなさんがその言葉を一つでも見つけてくれたなら、それはとても素晴らしいことだ。」


―――拍手喝采―――


以下、『何も変えてはならない』公式サイト。改めて大プッシュ。
http://www.cinematrix.jp/nechangerien/


追記*コスタの言葉、アヴァンギャルドの項、保守的なものの美しさは保守的なものの「過激さ」とした方がより的確かもしれません。ペドロ・コスタの映画を見れば分かるように、これは逆説的なことです。


追記2*たとえば『何も変えてはならない』を自然主義的に撮ることは不可能です。ジャンヌ・バリバールは撮影現場を振り返って「大掛かりな照明機材の不在」を言ってましたが、これはどうゆうことなのか?『何も変えてはならない』の画面が持つ自然主義とは正反対の審美的な美しさをどう説明するのか?そのヒントが「スタイリスト」と「寸法を測る人」の間に隠されているのだと思う。