『白痴』(ピエール・レオン/2008)


日仏学院ジャンヌ・バリバール特集上映」にてピエール・レオン『白痴』。ユニークな才気を感じさせる中篇『モッズ』→大傑作『フランス』をモノにしたフランス映画期待の新星セルジュ・ボゾンも出演しているこの作品。上映後のジャンヌ・バリバール自身の話によると、ピエール・レオンはアンダーグラウンド映画作家としてバリバールが注目していたそうで(一昨日、今日と話を聞くかぎり、バリバールのインテリ&シネフィルぶりが伺えます)、セルジュ・ボゾンとピエール・レオンは「SPYFILM」という制作会社を立ち上げて独自の作品を共同で作る創作集団なのだそうだ。『フランス』に主演していたシルヴィ・テステュー(画像参照)も出演している。予告編の段階でどこかボゾンの映画を思わせたのも無理のないわけだ。


『白痴』については英語字幕で細かいニュアンスが分かりづらかったので保留というところなのだけど、「招かれざる客」のバリバール(ナスターシャ)が酒気を帯び徐々に本性を現していく「劇」の連続が、いまにも壊れやすいピアノの旋律をなぞっていくオール室内劇と言ったらよいか。劇の始まりと終わりを告げるかのようなチャイムの音まで入っている。ジャンヌ・バリバールとシルヴィ・テステューが同じフレームに収まっていることには感動するのだけどね。しかし映画のことを完全に吹き飛ばしたのは、上映後に行われたジャンヌ・バリバール寺島しのぶの対談だった。以下、その感動的な対談を記憶の思い出すがままにレポします。


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坂本安美さんによる『白痴』に関する質問(上記SPYFILMの内容)に関連して、どういうポイントで出演作を決めるか?という質問に、バリバールは「(事前に)本は読まない」との回答。寺島しのぶの言う「動物的な感」に共感しつつ、ここにはヌーヴェルヴァーグ以降のフランス的な監督と役者と批評の直接的なネットワーク、連帯関係があることを強調していた。ここにバリバールが「私たちはヌーヴェルヴァーグの子です」と言うときの単なる趣味の問題を超えた「覚悟」を感じる。同時にクリエーションが「趣味の良さ」に帰属させられがちな日本の環境ではジャンヌ・バリバールという傑出した女優は生まれづらいとも思った。歴史を振り返るまでもなく真に刺激的なクリエーションは「運動」の中でしか生まれ得ない。ある意味バリバールは「ヌーヴェルヴァーグ宣言」(の後継)とでも言うべき覚悟の元で仕事をしていることが、そのシャンとした背筋に顕れている。寺島しのぶが「嫌な仕事をしなくてはならないときもあるでしょ?」と言ったときの「ないわ。でも監督と合わなかったことはある。失敗も人生よ」と笑顔がこぼれたときのバリバールが素敵だった(ここで13歳のコドモのエピソードの紹介)。そして寺島しのぶの背筋は同じ様にシャンとしている!


坂本安美さんからオリヴィエ・アサイヤスの『8月の終わり、9月の始め』に関したバリバールの発言が引用、リュック・ムレの『俳優作家主義』の話と結び付けられる。映画の運動を評するとき「役者の身体」という言葉がよく使われるが、実は「監督の身体(の運動)」こそが大事なんだと、バリバールは書いている。監督自身の身体の運動が役者に感染するときにそれは起こると。常に監督と密な連携を取りながら撮影は進むのだと語るバリバールは本当に一回一回の撮影が真剣な恋愛であるかのように語る。対する寺島しのぶは撮影中、監督とは一切(演技の)話はしない、バリバール曰く「(自分に)厳しいやり方」を選択するのだと。リヴェットの現場(『ランジェ公爵夫人』)では「衣装を着た瞬間に役を生きろ」と演技指導され、王政復古期の女性なんて分からないバリバールは「次の台詞の一行だけを生きるように」演じたとのこと。


バリバールから最近のフランスは女性を主役に沿えた映画が少ないとの嘆き。ミゾグチやオフュルスのように女性がメインの映画が増えてほしいと。坂本安美さんが「男性と女性で50%ずつ」というフィリップ・ガレルの話を持ち出す。日本も同じ環境、だから『キャタピラー』(若松孝二)の話が来たときは本当に嬉しかったと、寺島しのぶ。リュック・ムレの『俳優作家主義』に倣って(バリバールは近年読み直したそうです)一人の女優(の選択)をメインにした女優作家主義論が何故未だ編まれないのか不思議に感じる、とバリバール。フェミニズム的なそれではなく、これってどうなのよ?、と客席に問うている3人の女性の図に感動した。


ギョーム・ドパルデューの話。『ランジェ公爵夫人』撮影時はリヴェットやギョームに反応することだけを考えていた。ギョームは無茶苦茶(規格外)な俳優でリヴェットも頭を悩ませていたという。自分で全てを決めて役柄に没頭するギョーム。ギョームの演技に精一杯「反射」するバリバール。次第に彼(ギョーム)が正しいのだとバリバールが気づく、というお話。バリバールはギョームに多大な衝撃を受けたらしい。あんな役者とはもう2度と会えないだろうとまで語っていた。ギョームの天才性を物語る話に坂本さんも胸が熱くなっていたように思えた。涙がこぼれそうになる。デプレシャンやアマルリックのときも思ったのだけど、ヌーヴェルヴァーグのコドモを名乗るこの世代のフランスの監督や俳優って、とにかく伝えるんだって一生懸命に話してくれるんだよね。手を抜くような身振りが一切ない。運動や連帯の意思が本当に強い。それは人を熱くさせる。つまり語り手の身体的な運動が私たちに感染し、今、この場に、作品が生まれる。


ジャンヌ・バリバールのことばっか書いちゃったけど寺島しのぶさん、超ステキな方だった。カッコいい女性二人の背筋のシャンとした並びは感動的だった。寺島さんの「ここにいる人たちはスバラシイですね。こういった場にこんなに人が来てくれるなんて、、こういった場所がもっと増えるようにしていきたい」と心の底から感激しているような言葉は確実に伝わったし、この言葉を私たち自身の運動や連帯に繋げていきたい。


追記*寺島さんは『何も変えてはならない』(ペドロ・コスタ)を体験したそうで絶賛していました。自分の思わぬ「顔」の発見こそが女優として撮られることの真の悦びだと二人の女優は同意し合っていた。坂本安美さん曰く「昼か夜かも分からない」「ここが何処かも分からない」『何も変えてはならない』は本当に掛け値なしの傑作です。