『アリス・イン・ワンダーランド』(ティム・バートン/2010)


地元シネコンレイトにて待望のティム・バートン最新作。実は2日連続で通ってしまった。ルイス・キャロルティム・バートンのマリアージュだなんて、多くの人と同じくツボすぎてもはやツボではなくなってしまうくらい個人的にド真ん中な格好なのだけど、正直不安はあった。ドジソン先生のイマジネーションを『チャーリーとチョコレート工場』のような遊園地的アトラクションの連続で構成するのではないか?という不安。ところが本作においてティム・バートンルイス・キャロルの豊かなイマジネーションではなく、創作精神そのものへの物語構造的な改編/創意を基盤にする。また画面においては古典的ともいえる映画技法の真っ向勝負を仕掛けている。基盤においては物語自体がキャロルの発案したタブレット・ゲームのようなズレを全編に取り入れ、画面においては反復を絶え間なく繰り返している。この妙技に脱帽する。



ヴィジュアルイメージ以外、事前に情報を集めていなかったので、まず本作が「アリスの帰還(リターンズ)」の物語だということに大きな感銘を受ける。ここで『アリス』は既に子供時代の反復として語られている。アリスと父の言葉の交換(とても重要なシーンだ)を経て13年後、19歳になったアリスが不本意な求婚相手と踊る退屈なダンス。集中力に欠けるアリスはいつの間にか妄想の組み替えゲームをしている。アリスを捉えるカメラがダンスに合わせてクルクルと回るにつれ意識の解脱はより大きくなる。前半は「逃げるアリス」の演出が光る。また「アンダーランド」と「ワンダーランド」の聞き間違えや、アンダーランドの預言絵巻に描かれた伝説のアリス本人か否かに自身も含め疑いがかけられるエピソード。面白いのはイモムシの「ほとんどアリス」という人を喰った台詞だろう。『ビッグ・フィッシュ』におけるホラ話のように、タブレット・ゲームの如くズレては関連付けられる幾つもの言葉と時間のレイヤー。同時に経過する時間軸だけで実は4つ(目前、幼少、絵巻、想像)もあるのだけど、其れらは置換を繰り返しながら一本の映画の流れとして難解さの欠片もなく見れてしまえる(ナレーションなしの潔さ)。また言葉の反復においてはアリス自身が伝承役を請け負う。アリスが”アタマがオカシクなった”マッド・ハッター(ジョニー・デップ)に告白する台詞の感動的な反復は言葉の伝承であり、アンダーランド自体がアリスの想像かもしれないという告白を踏まえたとき、いつかは終わってしまう夢や仲間との別れの痛ましさで画面は滲む。世界をファンタジーの役割に還元するときのバートンはいつだって悲痛だ。


舞台は再演される。皆が期待を込めてアリスの決断を待つ舞台上のシーンがアンダーランドで同様の図で再演=反復される。アリスは逃げない。ファンタジーの終わりを引き受ける。いつか忘れてしまうことを引き受ける。


「Off with his head!(首を切り落とせ!)」と劇中繰り返し叫ぶ”赤の女王”(ヘレナ・ボナム=カーター)のブラックな笑いを孕む暴君ぶりは周囲の欺きに支えられている。”赤の女王”とダブルイメージで重なるのは美貌を失ってしまったアリスの叔母だ。彼女たちは愛されることを望んでいた。王子様の出現を待っていた。故に”白の女王”(アン・ハサウェイ)が下した最後の決断は残酷だ。刑へ向かう直前、あんなことがあった二人がこれから上手くやっていけるのだろうか?


待っていても王子様はやって来ない。


少しばかり歳を重ねてしまった少女の成長譚。アリスの力強い独演とラストの展開に涙が出た。毅然とした態度でイメージに溺れることなく、原作への敬意のみでアプローチし得た傑作だと思った。やっぱティム・バートンは古典的なまでに映画の力で勝負したがる作家なのだよ。あらためて敬服。


追記*正直、1度目は本作における演出や構造の妙技をけっこうな割合で汲み取れてなかったかもしれない。あのハッピーテイストな予告編のテンションのまま向かったからでしょうか。2度体験して本当によかった。アン・ハサウェイの操り人形のような動きもより味わい深く感じた。なによりミア・ワシコウスカ(=アリス)にゾッコン(よってご贔屓ジョニー・デップの画像なし)。あと一年遅かったらアリスじゃないかもしれないと思わせる/(無理にでも)思いたくなるという意味において、これは真の少女映画だと断固支持する。というか身も蓋もないけど、好きなんだ。3回目も見るよ。


追記2*「タブレット・ゲーム」は単語の一文字を変えて別の単語にする遊びのことです。念為。