『死に至る愛』(アラン・レネ/1984)


日仏学院アラン・レネ全作上映」最終日にてアルノー・デプレシャンがフェイバリットに挙げている『死に至る愛』。この苛烈な傑作について語る前にまずもって驚いてしまったのは、右図参照のポスターのデザイン。『死に至る愛』を体験してしまった者は、この漆黒に塗り潰された不気味な闇に身震いしないわけにはいかない。『死に至る愛』に幾度も挿入される漆黒の闇は存在の消失へと向かうフェイドアウトではなく、むしろそれは存在/時間の中断のようであり、視界の喪失のようである。視界を失った世界=フレームに浮き上がるのが「愛」と「死」ならば、この言葉は意味を求め宙を彷徨い続けるだろう。言葉の不可視性ゆえに。少なくとも映画の世界では。また血流の如く表記された言葉と、同じくショットとショットの間に脈が打っているような本編のフレーム展開に、思わず「人生は小説」ならぬ「人生は映画」と言いたくなる強烈な熱情を感じる。サビーヌ・アゼマの喉元にキスをするピエール・アルディティと、アルディティの心拍音に耳を澄ますアゼマという魅惑的なベッドシーンが思い出される。


傑作『六つの心』で絶え間なく降っていた雪は登場人物を魔法のような大らかさで包んでいた「奇跡」だったが、『死に至る愛』における粉雪は、漆黒の闇の中に降り続ける。この世界では「奇跡」は彼方にあるようだ。人類の起源へ向かう男アルディティと人類の未来に向かう女アゼマ。アゼマの叫びと共に迎える開巻にデュラス的「不在」のテーマが一瞬頭をよぎる。続くアルディティの蘇り。アルディティが一度死んでいるということ、アルディティが2階から降りてくるというところが興味深い。アルディティの死後、未来を志向していたはずのアゼマが過去を志向するなと批判に曝される。だがここでアゼマの志向するのは過去ではなく起源なのだろう。漆黒の闇によって中断される意識のなか(私たちはどんなに悩まされても常時愛や死のことを考えているわけではない)、アゼマだけが一人中断されずに生き続ける。アンドレ・デュソリエファニー・アルダンとの食事で唐突に愛を誓ったときのように(神父の前で結婚を誓うような3人の構図!)、アゼマは繰り返し誓う。死を。愛のために。不在の彼に向かって。言葉の意味は剥奪されトートロジーのような関係が生まれる。いつしか愛は愛から切り離され、死は死自体の意味を探すようになる。


ここでもう一人「中断」されていなかった女の存在が、この物語にドクドクと音を漏らすが如く血を通わせる。デュソリエの「死ぬな」ではなく「行くな」という言葉が強く心に訴えた。非常に苛烈、悲痛にして、60年代レネとの決着をみせるような傑作。


追記*愛の幸福で満たされた瞬間のアゼマの台詞。この愛がどれほど満ち足りたものかを語った後に、「これからは反復しかないのよ」。