『ダーク・シャドウ』(ティム・バートン/2012)


ティム・バートンの新作は、自身のフィルモグラフィーにおける符合と、作品内における符合と、それをブチ壊すティム・バートンの映画屋魂に溢れた遊び心が、痛快に炸裂した傑作だ。エヴァ・グリーンの痛快無比の狂おしさに泣き、ミシェル・ファイファー(年を重ねて更に美しくなったね)の構える銃に泣く。二度スクリーンに足を運んだのだけど、二度目はエヴァ・グリーンに思いっきり移入してしまって、彼女の抱えた200年の悲しみに、いたたまれない気分になってしまった。200年の思いを込めて差し出したハートさえ壊れてしまうなんて、残酷すぎるじゃないか。前作『アリス・イン・ワンダーランド』における赤の女王は、自分を殺そうとした恋人と永遠に二人っきりにされる、という、生き地獄の仕打ちを受けた。これはティム・バートンが仕掛けた、物語に描かれない部分、そして「影の部分」のことだ。この作品のエヴァ・グリーンには、まさにあの赤の女王の「影」と符合させざるを得ない。よくよく考えると、『ダーク・シャドウ』には勝者が誰一人いないのだ。壮大なアンハッピーエンド・パーティーへ向けて、ティム・バートンは細部の物語の構築を細かく刻んでいく。クロエ・グレース・モレッツは、食事のシーンでレコードに針を落とし、踊りだす。彼女のダンスの最初のアクション、クイッと首を横に向ける特異な所作は、アクションによる伏線としての機能を終盤に符合させている(「母」の幽霊の横向き落下のアクションも然り)。ジョニー・デップも久々に生来のフォトジェニーに収まってるショットがある。あのスローモーションになったかのような奇怪な表情のアップは、この俳優の本来の形態模写的な特性(たとえば『妹の恋人』の道化ぶりを思い出そう)を活かした、近年のジョニー・デップでは群を抜いた出来栄えといえる。



さて、『ダーク・シャドウ』のジョニー・デップの催眠術アクションを見て、真っ先に思い出したのは『エド・ウッド』のベラ・ルゴシマーティン・ランドー)のアクションのことだった。この催眠術のアクションを『エド・ウッド』において、ジョニー・デップが習得するシーンがある(まったく同じ!)、というところが面白い。ベラ・ルゴシ発、マーティン・ランドー経由、ジョニー・デップへ引き継がれたアクション。さらに『エド・ウッド』では、このアクションを習得するシーンで、こんな台詞が用意されている。「私の呪文にかかるがよい。私の愛の奴隷になるのだ」。冒頭で船頭に磔にされた魔女のショットを思い出すとき、また、エヴァ・グリーンの200年の愛が「バーン、ベイビー、バーン(燃やせ、ベイビー。すべてを焼きつくせ)」の一言によってスペクタクルな破局を迎えるとき、そして『ダーク・シャドウ』が徹底して愛憎の破局を描いていることを思い知らされるラストの落下、、、このときベラ・ルゴシから引き継がれたあの符合は、『ダーク・シャドウ』をより異形な呪いの物語、魔女の地獄絵巻、終わりなき悲恋絵巻として強固に刻みつける。傑作!


追記*個人的に『ダーク・シャドウ』は、『イングロリアス・バスターズ』におけるタランティーノの映画への愛憎のスペクタクル化を思い出す。あの映画もすべてが焼き尽くされていた。