『星の旅人たち』(エミリオ・エステベス/2011)


「ここは星と風の道が交わる場所」。エミリオ・エステベスのこの野心作に繰り返し出てくる言葉「The Way=道」は、物語の進行と共にその意味(または意義)を粉々に断片化させていく。『星の旅人たち』が表出させる「道」とは、たとえばなんらかの信念や信仰によって力強く素描される一本の線のことではなく、個人と個人の間の距離は元より、一個人の心の中でさえ散り散りにされた、断片を点=塵として、そこから線を素描していく。加えて、一度素描されかけた線を、再度、宙に霧散させることで、其処には不可視の(マーティン・シーンが眼科医という設定や、ファーストシーンの視力検査のシーンは示唆的だ)線が描かれる。大きな星を構成するこの世界の塵、としての個人よりも、さらにミクロなレベルで、ここでは彼や彼女自身が、多くの塵を抱えたひとつの星として彷徨い、星同士の偶発的で運命的な接近を繰り返すだろう。物語の歩みによって、ではなく、このフィルムの歩みそのものが、不可視の星の軌道を点描していく。だからこの作品のロマンティックな邦題は作品への真摯なリスペクトに他ならない。



マーティン・シーンは息子(エミリオ・エステベス)の遺灰を息子が辿った(辿るはずだった)「道」に撒く、という目的のために、ピレネーの美しい景色にさえ目もくれず、ストイックな歩行を続ける。このとき、マーティン・シーンには、自身の視界を、自身によって選択する意思がある。たとえば、マーティン・シーンエミリオ・エステベスを幻視するショットの全てには、亡霊が偶然に視界に入ってしまった、という類の驚きは皆無であり、むしろマーティン・シーンは、息子の亡霊を視界に入れるという、「視界の選択」をしているようなのだ。イマジネーションによる対話の素描。息子の姿は、彼が見ようとする意思、話しかけようとする意思によってのみ、可視化される。二度目に向けた亡霊への視線が、空振りに終わるときでさえ、マーティン・シーンは予め、次の瞬間に亡霊が見えないことを知った上で視線を向けている(ように見える)。息子の可視化された姿とは、父が内に秘め続ける、様々な記憶と感情の塵で出来た結晶、星のことだ。道中に出会うユニークな旅のお供たちの内、女性が、ときどき娘の声を幻聴する、と告白するシーンは、これを補完するかもしれない。また、ジム・ジャームッシュの映画におけるロベルト・ベニーニのようなエキセントリックな小説家志望の男性とのエピソードが興味深い。マーティン・シーンの物語を、小説にしようと、断片的にメモを取る、という行為自体が、倫理の問題は当然として、相反する感情で引き裂かれている。『星の旅人たち』は、血縁のない関係によって擬似家族を形成するわけでもなく、ただ此処に様々な人生、感情が在るということを点描する。エミリオ・エステベスがここに描くのは、様々な選択によって導かれた人生の、様々な意思のある視界の接近だ。ありがとう、恐怖よ。ありがとう、幻滅よ。ありがとう、沈黙よ。ここは星と風の道が交わる場所・・・。素晴らしい作品。


追記*エミリオ・エステベスの前作『ボビー』も傑作です。