『ダークナイト ライジング』(クリストファー・ノーラン/2012)


「嵐が来る」「(世界の)秩序を取り戻す」と、まるで黒沢清の映画のような台詞さえ連発される『ダークナイト ライジング』の、”ボーン・イン・ヘル”の引力を悲劇的に昇華させた、漆黒の鉄の重み(ファーストカット以前に導かれる、このメタリックな重みの快楽!)に、ずしん、とやられてしまった。前作で文字通り夜の闇に消えたバットマンブルース・ウェインは、執事アルフレッドがウェインを心配する台詞のように、「街が再び荒れるのを待っているかのよう」であり、それは悪役ベインが自身を「(世界の)必要悪だ」と言い放つ台詞ときっちり符合するだろう。また、冒頭のアクションシーンにおいてベインの放つ台詞、「誰か?は重要ではない。重用なのは計画だ」の通り、『ダークナイト ライジング』で繰り返し問われるのは「ゴッサム(世界)の清算」というマスタープランのことであり、この点において、これまでのノーランの映画に特有だった人物造形の”のっぺり感”は払拭されている。『ダークナイト ライジング』は徹底して何かに魅せられるということの、宿命的な引力の裏表の物語=歴史(イストワール)を画面に叩きつけるのだ=地獄絵巻。だからこそクライマックスでバットマンが宙に現れたときの、いまにもバスの車窓から身を乗り出しそうな子供たちのキラキラした表情→まるで初めてバットマンを見たかのようなジョセフ・ゴードン=レビットの、少年のような不安と希望が拮抗し合ったような表情への繋ぎは、このことをショットとショットの最短距離で示していると言えまいか?



これまでのノーランの映画作法に抱いてきた個人的な最大の疑問は、クロスカッティング(並行モンタージュ)が物語の何に奉仕しているのか?という点だった。ノーランは映画をゲームのように考えているのだろうか?とこれまでに何度も思ってきた。ノーランの場合、クロスカッティングはサスペンスの緊迫を高めるための作法ではなく、おそらく同時進行する”ステージ”(それこそゲームのステージ)を見せるためだけに用いられる。という点で、『インセプション』はノーラン的クロスカッティングの極北(仮想現実という”ステージ”の主題と合致している)であり、そうであるがゆえに、どれだけ飛躍的なアクションが展開されようと、画面連鎖において無機的に感じざるを得なかった。が、『ダークナイト ライジング』におけるノーランの作法は、これまでのギミックのような、人物の周りをぐるぐるするカメラさえ封印し、正面からストレート・アヘッドな作法に徹している。ここが素晴らしい。たとえばクリスチャン・ベールアン・ハサウェイが舞踏会で踊るシーンの撮り方に、それは端的に示されているだろう。これまでのノーランの作法に則るなら、二人の周りを旋回するカメラワークを選択していたはずだ。このシーンがカメラワークではなく人物を動かすというベーシックな作法で撮られたことの感動は、まるでこの作品のアン・ハサウェイに捧げられたかのような「亡き王女のためのパヴァーヌ」の控えめな音響と相俟って強く胸に刻まれた。そう、アン・ハサウェイ、最高なのだ。アン・ハサウェイがこの作品で終始徹底させた、ウィスパーボイス、そのささやき、息の漏れ方は、彼女の纏うコスチュームのように、しなやかで、その身体と心のつかみがたさが、あまりにも魅惑的だ。


さて、ノーラン的クロスカッティング(ここは厳密にはクロスカッティングではないけれど、ステージへの大きなデジャヴ、という意味で)は、実はこの作品のラストシーンで極めてロマンティックで、かつミスティフィカシオンな手法として用いられる。そう、最後に。たった一度だけ!!アルフレッドの視線の”ステージ”によって!!このことから受けた感動に私はいまも心が震えている。


追記*『ダークナイト ライジング』をスクリーンで体験する率直な感想は、この作品の漆黒の鉄の重みが「な、なんて気持ちいいんだおぉぉ!!!」ということに尽きる、というのも本音です(笑)。というわけで画像はアン・ハサウェイをフィーチャー。


追記2*この作品の「地獄絵巻」ぶりを示した真に恐ろしいショットが一つあるのだけど、それがモニターに映し出された瞬間、クリスチャン・ベールはすぐにモニターを消すのだ。あの数秒間のショットは凄すぎる。あと人質を乗せたバイクの疾走シーンたまらん!