『ヴィサージュ』(ツァイ・ミンリャン/2009)


フィルメックスにてツァイ・ミンリャンの新作。アジア圏の映画作家がフランス資本で映画を撮り成功する昨今の例に洩れず、ツァイ・ミンリャンの新作は大変に興味深い仕上がりになっている。ただ恐らく『ヴィサージュ』やツァイ・ミンリャンの過去作を全く評価できないという人は多いと思う。ショットとショットのスリリングなせめぎ合いが最小限に抑えられていることから、ツァイ・ミンリャンの作品に活劇的要素を探すのは難しい(この人は活劇が全く出来ないのではなく、評価の是非はともかく、やらないという選択だと思う)。また各シーンの始まりに特徴的なのだけど、シーン頭に相当に狙いすぎなくらい奇抜なアイディアやアングルを持ってきて滅入る寸前まで長回しを展開させるという、気に入らない人は本当に気に入らないのかもしれない。個人的にも本作と同じくジャン=ピエール・レオが参加した『ふたつの時、ふたりの時間』を除くツァイ作品にノレなかったのも事実。ただ、『ヴィサージュ』という作品のスタイル、これだって紛れもなく映画なのだと、自分の詰まらない固定観念、価値観なんか崩されて上等なのだと、広角俯瞰の美しいラストショットに思った。


ジャン=ピエール・レオファニー・アルダンジャンヌ・モロー、ナタリー・バイ、マチュー・アマルリックレティシア・キャスタ、リー・カンションという超・超豪華キャスト陣。まさかのマシュー・バーニーですか!?なヴィジュアルイメージ(吐息の音が素晴らしい!)が飛び出したり、物語という物語は殆ど存在しないといってよい。ヴィサージュ=顔の歴史だけが其処に残る。大きな鏡の前でレオとアルダンが語り合う、ちょっとベルイマンを想起させるシーンが胸に迫る。トリュフォー映画の二人の顔と刻まれた皺の存在感が映画の設定すら離れて前景化する瞬間だ。


冒頭の素晴らしい水道管破裂→部屋中水浸し→浮かぶベッドに横たわる女性のシーンから意識せざるを得なかった「母」の存在。亡き父に捧げられた『ふたつの時、ふたりの時間』と同じロケーションのラスト。この場所に劇中を実存的に彷徨っていた鹿がいることに、ユーモアと表裏一体となった喪失の切実さ、忘却の切実さを感じた。


以下、上記画像のミュージカルシーン入りの予告編。再度公開希望。