『よるのくちぶえ』(遠山智子/2009)

ユーロスペースにて東京藝術大学大学院映像研究科3期生の作品。これはハードコアな作品。冒頭の雨のバス車内→明滅する歩行→雨宿り→赤ん坊の素晴らしい数ショットを見れば一目瞭然のように映画純度が非常に高い。校舎の屋上で抱き合う少年少女、俯瞰で捉える生徒3人組、なにより決定的だったのは河の水の触感ですね。どうにも忘れ難いショット、画面連鎖がいくつかあるのです。


間もなく15歳の誕生日を迎える少年が「僕は年寄りです。何度も子供を繰り返している内に、年を重ねてしまいました」(←うろ覚えですがこんな内容、冒頭でこの赤ん坊は「大人になれない」と宣告されるのです)と呟くこの作品。少年は15年でひとつの周期を終える。15年の節目の直前、実父が迎えに来る。言葉を集める詩人の詩と符号するように父親は「砂漠」にいたのだと言う。母方に育てられた少年は15年という節目を境に父ともうひとつの旅に出る。口笛を吹きながら夜の舗道を歩く親子3人。前半〜中盤までは対象への絶妙な距離と極端なアップが印象的。異様な静けさの中に暴力的な緊張感が充満していて、傑作だと疑わなかった(ショットごとに力の差が目立つのだけど)のですが、この不安定な空気がラストへ向かって薄らいでいくのを境に、対象をじっと見つめる長回しも突き放すような残酷さ、陰影が消え、辛くなってくるのが残念、とはいえ、失敗とか成功云々以前に、シーンの到るところで何か蠢く余韻のような、作家のスケールの大きさを感じさせる作品ではありました。


追記*なにか「遠山智子」「よるのくちぶえ」のキーワードでとんでくる方が多いようなので恐れ多いながら追記しておくと、個人的に『イエローキッド』に比べ(比べるのもどうかと一瞬迷いましたが)『よるのくちぶえ』を忘れ難い作品にしているのは、何よりその特異な画面連鎖ですね。作品解説で筒井武文氏が「映画文法に捉われない映像の飛躍」と記していますが、このショットとショットの間に生まれる歪な飛躍がもたらす切れ込みに何度も唸らされたし、それは『コロッサル・ユース』(ペドロ・コスタ)(いや似てるわけではないのですが)にも通じるような随分ハードコアな挑発だと思った。書き忘れたのだけど学校のマンホール(地下水道?)への「くちぶえ」の残響シーン(一瞬、静寂に包まれる)が実に素晴らしく、あの残響をもっと映画全体に活かして欲しかったなーとの気持ちもあります。