『リミッツ・オブ・コントロール』(ジム・ジャームッシュ/2009)


地元シネコンにてジム・ジャームッシュ新作。個人的にゼロ年代は08年でひとまず終わったような実感があるのですが、これは来たるべきテン年代(!?)の到来を告げようハードコアな傑作だなと、いたく感銘を受けました。いてもたっても居られなくなり2回続けて見てしまいましたよ。主演の黒人俳優イザック・ド・バンコレの存在感が『コロッサル・ユース』のヴェントゥーラを想起させて(というかよく似たショットがある)圧倒的なのですが、ティルダ・スウィントンガエル・ガルシア・ベルナルジョン・ハート工藤夕貴(カッコいい!)、出てくる人、人が一様に素晴らしくて悶絶。一方でこの作品のハードコアな構造は一度の体験では受け止めきれない気もします。無理解に遭わなければよいなと心底願う。


「無情な大河を下りながら― 
もはや船曳きの導きを感じなくなった」
アルチュール・ランボー



残響の映画。モノや歴史の残響が複数の世界を繋ぐようサイケデリックに響き渡る。幾層にも重ねられた残響は徐々にしなやかな柔軟性を帯びる。「宇宙には中心も端もない」。工藤夕貴がふと日本語で宙に放つ言葉(映画の冒頭で予めこのようなキーワードとなるべき台詞は驚くことに全て出し尽くされてしまう。後から出てくる人物はキーワードの肉付けをする存在といえる)や、ガエル・ガルシア・ベルナルの「真理とは―――想像の産物だ」という台詞には、バラバラに散らばった星屑がそれぞれの残響でフィードバック、反響しながら一つの星座を形作るような、ハッとする重みがある。イザック・ド・バンコレが美術館で最初に凝視する絵画がキュビズムの作品なのが象徴するように、この残響は複眼性を備えている。ここに「People Make The World Go Round」を描いたともいえよう『ナイト・オン・ザ・プラネット』より遥かに現代性を帯びたジャームッシュの現在、未来が提示されている。「映画」「音楽」「科学」「絵画」「幻覚」、世界を形成する星屑=想像力は、かくも美しい残響を響かせる。イザック・ド・バンコレに添い寝する全裸の女のヒップ、その円を描く美しい形はそのまま世界=球体を表わしているかのようだ。全裸の女とのプラトニックな「世界に二人ぼっち」の抱擁が、泣ける。


「自分こそ偉大だと思う男を墓場に送れ」という指令の元、”王”のアジトの手前まで辿り着いたイザック・ド・バンコレを描くシーンの画面連鎖で奇妙ことが起こる。イザック・ド・バンコレの視線の先にイザック・ド・バンコレが歩いている。続いてイザック・ド・バンコレの歩行を数ショットに分けて繋ぐのだけど、これが奇妙な具合に繋がっていない。まるでエスプレッソを同時に2杯頼む男=イザック・ド・バンコレの複数の分身、ガエル・ガルシア・ベルナルの云うところの「鏡の中の自分が実存を超える」状態のよう。


ジャームッシュ村の亡霊たちがカメラから消える瞬間に息を呑む。マスターピース


追記*劇中「Diamonds Are a Girl's Best Friend」という文句がダイアログを切断するように繰り返し出てきます。個人的にとても好きなジャズ・スタンダードなので嬉しくなる。マリリン・モンローが『紳士は金髪がお好き』(ハワード・ホークス)で唄った曲です。この作品の旅はスペイン国内を出ないのですが何故か世界中を歩き廻っているような印象を受けます。オールスペインロケ、というかイベリア半島ということで、ペドロ・コスタホセ・ルイス・ゲリンとの共振(というかジャームッシュは見たのかな?としか思えない箇所がある)を思わせます。しかし『リミッツ・オブ・コントロール』はジャームッシュの最高傑作だね!また見に行きます。