『こおろぎ』(青山真治/2006)


カンヌ映画祭ハイライト」で放送されたツァイ・ミンリャンVisage(顔)』の抜粋映像にひどく泣かされた。古典ミュージカルのような絢爛な衣装を纏って唄い踊るレティシア・キャスタの多幸感と、その傍らで壁に頭をもたれ深く悩ましげなジャン=ピエール・レオーのデカダンスが一つのフレームに並置されている。ファニー・アルダンとレオーが過去を語り合う共演シーンも実に素晴らしい画面だった。これはツァイ・ミンリャンの集大成であり最高傑作なのだとの確信を抱くに充分な数分間。会見でのレオーの大袈裟な身振りを交えたトークで更に感涙。ゴダールトリュフォーやスコリモフスキーの傑作で知っているレオーが其処にいた。個人的にはツァイ・ミンリャンといえば『ふたつの時、ふたりの時間』(2001)だけが特別な作品なのだけど、あれにもレオーは出ていたね。ヌーヴェルヴァーグ50周年を祝う特別な作品だと期待大!


さて本日は爆音映画祭吉祥寺バウスシアターにて青山真治の未公開作品『こおろぎ』。2006年の制作にも関わらず国内でも数回しか上映の機会に恵まれず幻となっていた作品、ようやく!座布団席まで出る満員御礼ぶり。


アイリス・インで視界に広がる荒波、舞台は西伊豆、ベッドで寝ている鈴木京香の背中を照らす木漏れ日は艶かしく、盲人=山崎努を正面から照らす光は恐ろしい。樹木のザワメキは波のウネリのように聴こえ(のちに津波がこの町を襲った歴史が語られる)不穏な空気が渦巻く。ふたりの食事が序盤では繰り返し描かれる。目玉焼きの半熟の黄身を顔面を押し付けながら下品に啜る山崎努。予感のようなものがふいに凶暴な空気をへと変貌を遂げるのは、鈴木京香山崎努がチキンを食らう顔がアップで何度も切り返されるシーン、そして安藤政信鈴木京香を誘惑するシーンだろうか。涎をダラダラ垂らしながらチキンを食らう山崎努はついに鈴木京香の指に喰らいつく。愛撫のように指を舐める盲人の前でもう一方の自らの指を舐める鈴木京香。目の前にいる相手の視界の及ばないところでオーガズムが起こるのは後半の”昇天”へと繋がる。地元民が集まるカクテルバー(ユーモアというか謎に満ちていて可笑しいのですが)に山崎努を連れ立って訪れた鈴木京香安藤政信に誘惑される。捕られた手を跳ね返し又捕まえられるアクションというか”型”が素晴らしい。トップギアが入る。ここから二人を照らす光がその質を同じにする。


安藤政信の登場から嫉妬が生まれ鈴木京香山崎努に対する当たりがキツくなる。ちくわを無理矢理食わせるシーンとかエゲツない。ちくわの柔らかさを強調するあたり更にエゲツない。山崎努が海へと繰り出し月夜に照らされるシーンに鳥肌が立つ。鈴木京香が恐れつつ惹かれてきたこの盲人の怪物としての様相が浮き上がる。こんな風に山崎努を撮れる(撮ろうとする)のは青山真治以外考えられない。車での移動の挿入(何気ないけど素晴らしい!)を挿んで、続く洞窟における暗闇のシーンまで、もう怖くて怖くて仕方がなかった。洞窟で歴史(隠れキリシタン)が語られる。しかしそれはウソかホントか分からない。安藤政信伊藤歩が去っていった森で鈴木京香は迷子になる。樹木が渦巻き状となって彼女に襲い掛かる。幻視のような森を抜け家に帰ると前述のオーガズムが待っている。


この作品には少なくとも3つ以上のラストシーンがある。しかし青山真治はここで終わっておけばキレイに纏まるというシーンで簡単に作品を終わらせない(最初の”ラスト”に相応しいのは沖縄民謡のところでしょう)。この作品が歴史の清算へのプロセスを描いているとして、笑いや死によってあたかも歴史が吹き飛ばされた/清算されたかのようなシーンで終わらせることなく、再び歴史が繰り返されるところまで残酷さとちょっとしたユーモアを交えながらキッチリと描き切る、その姿勢に強く感銘を受ける。


おそらくキャリア最高の演技をみせた鈴木京香には何処か岡田茉莉子のイメージが重なる。『水で書かれた物語』から始まる現代映画社での吉田喜重の作品を青山真治が撮ったら、こうなるのかもしれない。素晴らしい。異形の傑作!


ちなみにストローブ=ユイレ『放蕩息子の帰還/辱められた人々』の回で予定されていた黒沢清青山真治の対談は青山さんの「のっぴきならぬ状況」(樋口さん曰く、そして酒とかではなく)により急遽、黒沢・樋口対談になりました。面白かったけど無念。あとストローブ=ユイレには爆音が適正かもと思った。


追記*伊豆半島出身なのであの地方独特のヤバさはちょっと分かる気がする。