『TOKYO!』(ミシェル・ゴンドリー/レオス・カラックス/ポン・ジュノ/2008)


東京のしかも郊外でなく、まさしく現代の東京、なるものを舞台とするとき、その困難なる撮影許可云々の話(よく知りませんが大変らしいですね)の前に、そのそもこの東京という都市が映画に相応しいロケーションなのかどうかという問題がある。『ロスト・イン・トランスレーション』のソフィア・コッポラは、東京を舞台としながらも劇中のほとんどを室内に費やすことで聡明にもこの問題を回避している(阿部和重氏の『映画覚書』に詳しい)。東京という都市はどこか平面的で映画には向いていないんじゃないのか。想像力の乏しい自分には、現代の東京を撮るなら「誰もいない東京」を狙うしかないんじゃないか?と思っていた(実際ポン・ジュノはやってますが)。なので世界でも屈指の映画作家であるレオス・カラックス(『メルド』)や黒沢清(『トウキョウソナタ』)が描く「東京」にものすごく興味がある。そういう観点で『TOKYO!』はかなり無茶してるなーと感心した。


レオス・カラックスの『ポーラX』(1999)以来凡そ9年振りとなる作品はシネマの血流が脈々と蠢いているような随分とハードコアな作品になっている(コメディにも関わらず)。そもそもこれは短編に相応しい物語じゃないですしね。それをカラックスが描くのだから規格外にならざるを得ない。


銀座のマンホールから出現するメルドなるドニ・ラヴァン演じる(テロリスト)が「ゴジラのテーマ曲」にのって獰猛に走り出す一連の流れにワォ!と思いつつ若干の不安を感じたのだけど、その後、渋谷駅前の歩道橋(やっぱゲリラ撮影なんだって!無茶するねー、凄い)で手榴弾を乱れ投げする場面や、彼のドス黒い地下生活や、片目の潰れた赤髭メルドのアップ、その余りにも究極なアップが飛び出すや、これは何か正悪が混濁した爆発=開放なのではないかと。やっぱドニ・ラヴァンはカラックスの画面にこそピッタリ嵌るね、なんて思うよりも早く、メルドのアップやその奇怪な動きは瞳にトラウマを残すだろう。左曲がりの髭と右目が潰れているメルドが、右曲がりの髭と左目が潰れているフランス人弁護士(彼は唯一メルドと共通の言語を話せる)と、その対称となった顔を寄り添う時、このジキルとハイドのような双児の視線の先には一体何があったのだろう。裁判所では3分割の画面によってメルドのアップが最低2つの角度から捉えられるのだけど、一瞬死んでるんじゃないかと思うほどその表情は空白であり何処か偉大な彫刻の如く静的なオーラを放っている。


カラックス信奉者としてはこの作品を特別な傑作だと持ち上げたい気もないわけではないが、こういう巨大な才能の断片を見せつけられると、それがたとえ9年後だろうがやはり来るべき長編を待ちたいと、レオスからの強烈な挑戦状をひたすら待ち続ける生活に三度戻ります。レオス、やっぱりあなたは映画を撮らなければならないのだよ。


カラックスだけに触れるのもフェアじゃないので2つの作品も。


ミシェル・ゴンドリーによる『インテリア・デザイン』は、この作家の空間を立体的に捉える力量のなさがあまり目立たず、それは加瀬亮の頑張りがカヴァーしてるからかもしれない。いや、それでもやっぱり平面的なんだよね、ゴンドリーの画って。ただ、これはネタバレなので書かないけど、あの露出っぷり、よく撮れたね。ゴンドリーに映画の才覚はないと思っていたし、これ見ても変わらないのだけど、今回わりと頑張ってる方かも。


ポン・ジュノは一応映画の衣を着てはいる。でも『グエムル』(決して嫌いな作品じゃないです)のときも感じたのだけど、そこが弱いですよね。なんか言い訳のように映画っぽくしているように見えてしまうというか。蒼井優のファンなら喜べたかもしれないけど。。。


追記*スタジオボイスのカラックスインタビューによると『メルド』ニューヨーク編の脚本は既に書き始めているらしい(同時にここ数年いくつかのプロジェクトが難航している模様です)。ケイト・モスみたいなモデルを連れ去って地下でファッションショーやりたいとか。いいアイディアですね。
追記2*デモ行進&シュプレヒコールの場面はかなりのカットが削られたのではないか、と推測する。裁判所の背景が暗い影で塗りつぶされているところも見所です。