『歩いても 歩いても』(是枝裕和/2008)


とてもよかったです。台所の流しで大根と人参の皮を削るアップ(樹木希林とYOUの会話)から映画が始まることで、早速観客にフレームの外を意識させることに成功している。大根と人参がこの映画の先々のスタイル/文法を示す伏線になるかの如く画面に収まっている。劇中、樹木希林とYOU(本当に素晴らしい演技だ。脱帽!)は常に喋りっぱなし世話しなく動き回っていて、登場人物それぞれの視点に変わっても、フレームの外からこの二人の会話や動きが想像できるようになっている。是枝氏の今までやってきたことが完全に一つの型として結実していることに驚いた。是枝氏の演出力はこの映画でネクストレベルに引き上げられたといっていいと思う(『花よりもなほ』は未見)。1フレームの中に家族が納まったり、個々人の視点に変換したりと、この映画には複数の視点が見事な芸当で捌かれる。その中心に樹木希林とYOUがいる。


ここで前々作『誰も知らない』の話をすると、あの映画の弱点であり批判されたポイントになってるのは、映画の中のキラキラした子供たちのショットが完全に操作的だという点で、子供たちは映画の時間の中で持続としてキラキラしていたのではなく、それが後から選び切り取られたつまり編集による輝きだという点でしょう。悪く言えば情報操作ともいえる。子供たちは持続する単独のショットの中で輝いていたのではない、という点。そういう反則!?作法は『歩いても歩いても』の中に見られない。という点でも是枝氏の映画が地続きに発展しているといえる。大人たちから離れて子供3人で遊ぶ一連のショットは川内倫子的ファンタジー。すごい素敵ですッ。


それでも素晴らしいと思いつつ諸手を挙げて絶賛できないのは、最後の方のナレーションでのお話の展開に拠る。これから逝く人、生きる人の対比が階段と坂による上下で象徴的に示される(ラストショットいいね!)のは秀逸だと思うけど、ナレーションではなく、あのメンバーで具体的な死の儀式(又はそれに近いもの)を描いてくれたなら、相米慎二の『夏の庭』の火葬場での名シーンに匹敵するシーンが撮れたのではないか?と惜しい気がしてならないからだ。事実、樹木希林とYOUが不在の後半(の更に後半)では視点が阿部寛の単一に収束していく分、画面から豊かさが消えてしまう。


とはいえ、この映画は好きですね。「歩いても歩いても」って、そういうことなのか!?とこれは素晴らしいシーンなので見た人のお楽しみに☆


追記*ところでこれは批判でも賛辞でもないのだけど、縁側でウチワを扇ぐ老人を見れば小津安二郎の映画が浮かばざるを得ない。この映画が小津から出発して小津ならざるものを目指したのか。それとも小津映画へのオマージュなのか、そこらへんの態度はちょっと分からなかったのですが。
追記2*いやいや誰もいなくなった家屋の空絵がパッパッパッと挿入されるから、この映画は小津映画へのオマージュといって間違いないですね。