『影の列車』(ホセ・ルイス・ゲリン/1997)


輸入DVDでホセ・ルイス・ゲリン『影の列車』。このような全く新しい才能の出現、そのキラメキを一人で見ることの寂しさというか、この作品を見てしまったことの熱狂を是非とも大勢で共にしたいのに!というどうしようもない気分にかられている。こんなこと軽々しく言ってはいけないのかもしれないけど、映画にはまだまだ未知の可能性が山ほど残されているんだ、ということをこの作品は教えてくれる。ルノワール・小津・ムルナウが遠くへ過ぎ去っていく、その鮮烈極まりない映像を前に「こんな映画は見たことがない」と涙ぐみながらモニターに向かっていた。大袈裟だろうか?いま私はこの作家の全貌に触れたい気持ちでいっぱいだ。



時計の背後に時計。奥の鏡に映った時計が手前の時計と同じ正面を向いていることからフレームの外(カメラの隣?)にもうひとつ鏡があって、それが反射して奥の鏡に映っていることが分かる。鏡を隔てた3つの世界がフレームに収まっている。ここまでの3作、複数の空間の立体的な配置はゲリンによる作家の烙印なのかもしれない、とひとまず考える。時計の秒針が誰もいない屋敷に深く響く。童謡「大きなのっぽの古時計」の「時計」を「心臓」と読むならば、この屋敷に大昔住んでいた主人の、写真のちょうど左胸を明滅させるこの光線や―――こう言葉にしてしまうと陳腐な表現だと思われる危惧もあるけど―――無人の屋敷に射し込む光と影の生き物のような自在さは、無人にして多元的なドラマを成り立たせてしまうほど、凄まじいことになっている。


映画は大きく分けて3つのパートに分かれている。第1部はジャン・ルノワールの名前を出さずにいるのが難しい開放的なしかし傷だらけのフィルム(実在する一家の残したホームムービー)。樹に吊り下げられたブランコや、河遊び、無邪気なダンス、など幸福感に満ち溢れたフィルムが感光して消え入るまで。



第2部は現在時制、かつて彼らの住んだ街や館にカメラは入り、残された家具や写真、先述の光景、が小津安二郎無人ショットともいえるタッチで展開される。緑と緑の間から漏れる光線が朝靄を吸い取る。すると、突然、湖の畔で稲妻が走る。嵐が館を襲う。ここの描写が最良の/未知のホラー映画じゃないか!?というくらい恐ろしい。決定的な危機が館を襲うわけではない。嵐が大昔の住人の亡霊を呼び覚ましているとしか思えないのだ。闇夜を3台の車のヘッドライトが照らす。それぞれのカーラジオから音楽が漏れる。これは一体なんなのだ?!と涙ぐむ。



第3部では傷だらけのフィルムが現在の映画として再構築される。主人と少女を画面分割して、彼らがゆっくりと目線を上げる所作が繰り返され印象的だ。そして具体的な再現へと映画は向かう。撮影者と主人(俳優)が現れる。すると傷だらけのフィルムで自転車を漕ぎながら手を振っていた、あの少女が彼らの前を通り過ぎようとする。ここでピタリと俳優の動きが止まる。時間が止まる。撮影という装置そのものが解体される。再び傷だらけのフィルムが巻き戻され、少女が手を振る。濃霧の中を進むボートと不気味な月(ムルナウ?)。一転して昼、向こう側に湖の見える路地(もう一本向こうにまた道路)で舟が通り過ぎる、自転車が過ぎ去る、車が過ぎ去る、人が過ぎ去る。


追記*下2枚の画像はTVモニターから撮ったもので粗くて見苦しいですがあった方がよいと思われたのでご勘弁。
補足*下2枚の画像は過去―現在の時制を大胆に跨いだ切り返しショットであり、尚且つ其処に映る撮影者の位置からは現在進行形の切り返しショットになるところを注視したい。しかしこの撮影者の撮ったフィルムを作品中で見ることはできない。現像前のフィルム。ここに未来という時制が新たに浮上してくるのだと考える。