『美しき棘』(レベッカ・ズロトヴスキ/2010)


フランス映画祭2011にてレベッカ・ズロトヴスキの処女長編。ミア・ハンセン=ラブやカテル・キレヴェレと共にフレンチ・フィメール・ニューウェイヴと括られて紹介されることもある、この若手女性監督のデビュー作は、レア・セイドゥという、ふと、まなざしをフレームの外に向けるだけで、画面に不穏なエモーションを拡散させてしまう(彼女のまなざしは多様な解釈を可能にする)女優のポートレートとして、散々模倣されてきたロゼッタ式(ダルデンヌ兄弟)の密着型カメラ演出との相乗効果が、最終的に面白い地点に辿り着いている。レア・セイドゥという女優は、いわゆる迫真の演技など披露しなくとも、エモーションの理由付けをほとんど必要としないほどに、その存在だけで語りを動かすことができる面白い女優だ。たとえば、姉のピアノの演奏をすぐ隣で聴いているレア・セイドゥ。たとえば、初めて出会う見知らぬ母と抱擁を交わすレア・セイドゥ。『美しき棘』の素晴らしいと思えるショットのすべてにおいて、彼女は一言も話さない。沈黙が支配する時間こそ、彼女は/画面は、より一層の輝きを帯びる。



ティーチ・インでのレベッカ・ズロトヴスキ(すごい美人でびっくり)が語る「映画にしかできないこと」の言葉に添って言うならば、『美しき棘』のもっとも素晴らしいと思えたシーンは、初めて出会った見知らぬ母親(ボーイフレンドの母)との抱擁シーンだった。初めて出会う人と涙を流しながら抱擁を交わすこのシーンに思わずグッときてしまったのは、「死者の現在性」を意識させるアイリス・アウト(レア・セイドゥの視点が強調される。それとは別に、この作品はすぐ奥の人物さえボカすほど全体的に深度を浅くとっている)による二つの重要な伏線の存在もさることながら、それを超越する、まさに「映画にしかできない」強引な出会い頭のエモーションに溢れていたからだ。たとえばラストシーン近くに反復される、暗い森を抜けた先の新しい世界への転換は、撮影されたシーン単体では素晴らしい出来だと思えるものの、ワンショットで空気を変えてしまうような、強引なエモーションの転換には至っていない。ここがこの映画の成功しているところと失敗しているところ、だと感じる。ヒロインの好奇心の誘導やエモーションの動機を、演技や台詞でくどくど説明する必要は映画にはない(『美しき棘』もそんなことはやっていない)。むしろ強引に捩じり込ますようなワンショットの空気の転換がこのシーンには求められるわけで。『美しき棘』は、レア・セイドゥのまなざしに賭け、それに成功すると同時に、細部の演出の弱さを露呈させてしまっている。とはいえ、この作品は非常に興味深いところを持っていて、それは、ちょうど貝殻に耳を当てたときに起こるような現象、貝殻の記憶と私たちの記憶が奇妙な結びつきを見せるあの現象に似ている。レア・セイドゥがピアス(イヤリング?*補聴器、とご指摘いただきました。ありがとうございます。文脈は同じなので以下は訂正せずにおきます)を耳に通し、涙を流す、その沈黙は、ピアスという物質自体が導く、過去から現在への照射なのだろう。このときのレア・セイドゥの画面への収まり方と、フレーム外からの外部の音の響き方は、この作家の次回作を楽しみに待ちたいと思えるだけの十分な説得力がある。


追記*ティーチ・インでのレベッカ・ズロトヴスキは熱心に語る姿が素晴らしかった。最初壇上に上がればいいのに、と思っていたけど、あれでよかったかもね。観客からの質問に投げキッスを送る姿にはドキッとしましたよ。次回作についてキーワードは「原発」「愛」「毒」だそうです。もちろんこの構想は日本の原発問題以前からあったそうです。


追記2*予告編を初めて見たとき、ケネス・アンガーのバイクに見えた。だから50年代的なポップミュージックが響いたところで、おおお、これは!?と引き寄せられたのだけど。ところでクレジットにルイ・ガレルの名が。『Petit Tailleur』に続きレア・セイドゥは本当に圧倒的!


追記3*もしかしてあれって補聴器かな?(直前の展開だと)。記憶が…。耳元がよく見えなかったのもあるけど…。間違ってたらスミマセン…。