『ファントマ』(クロード・シャブロル、フアン・ルイス・ブニュエル/1980)


クロード・シャブロルルイス・ブニュエルの息子フアン・ルイスブニュエルが監督したTV作品全4話。主演はヴィスコンティ組のヘルムート・バーガーと一度その顔を見たら忘れられないジャック・デュフィロ。ジャック・デュフィロは、同年に撮られた『誇りの馬』(異色作。とても静かで好きな作品)でもシャブロルと組んでいる。さて、この『ファントマ』に関して『不完全さの醍醐味』におけるシャブロル自身の言及にあたってみると、この作品の活劇上の問題点について至極納得のいくコメントを残しているわけだけど、では果たしてシャブロル版『ファントマ』が完全な失敗作にあたるのか、というと、IMDbに寄せられたコメントを読めば分かる通り、この作品を小さい頃たまたまTVで見てしまった人に強烈なイメージの残像を残すことに成功しているわけで、これが何に近いかと推測すれば、おそらく日本の『怪奇大作戦』などのTVシリーズものを小さい頃にたまたま体験してしまった人の持つトラウマに近い(詳しくないんだけど)。本作は予算の問題等、なんらかの理由で台詞で語らなければならなかったファントマの活劇に対するシャブロルの抵抗を映画の設計として読むのに、面白い材料とも言えるわけだ。またシャブロルとフアン・ルイスブニュエルの方法に共通して言えるのは、1980年版『ファントマ』がヒッチコックを経由した『ファントマ』だということだ。


たとえば第1話『魔法の死刑台』はシャブロルの言葉が当てはまる、台詞の長いやや冗長な出来になっていることは否定できない。だが、ここでシャブロルが設計=工夫するのは、恐怖のナタの振り降ろし方の問題であり、この振り降ろし方が死刑台=ギロチンの主題と重なるとき、物語の展開は強度を帯びていく。一言でいえば「恐怖は上から降りてくる」ということなのだけど、いやいやそんなの当たり前じゃんよ、と思う方は、この作家がかつて『肉屋』を監督した作家だということを思い出してみるといいかもしれない。無実の子供のパンに降り注いだあの血のことだ。『魔法の死刑台』において、死体が天井に張り付けられているシーンや、恐怖=ファントマが降りてくる階段の陰影を強調した使い方は、単なるクリシェを越えてシャブロル的主題として考える余地があると思う。また、”ファントマ”の文字の浮かび上がる古典的な演出や、第4話『市電の幽霊』における壁一面にファントマの影が広がるこれまた古典的なショットは、「現実の反転=現実」という意味で傑作『帽子屋の幻影』を思い出してもいい。これらはオマージュを越えた広がりを持つだろう。『市電の幻影』のラストは光と闇の反転、そして「裏切り」の結実として、ハッとするような出来に仕上がっている。



アン・ルイスブニュエルの作品についても触れておきたい。というのも、1980年版『ファントマ』において全力投球しているのは明らかにフアンの方だからだ。フアンの選んだ方法は、これは果たして父親譲りなのか、より超現実的なイメージをこれでもかと取り入れ、作品を破綻寸前のところまで追い込んでいる。TV作品でここまでやるのかと、エキセントリックなこと極まりない。特に第2話のやりたい放題ぶりは実に痛快、錯乱したイメージが集合する傑作だ。頻出する絵画のイメージとモンタージュによる蘇生、美しい女性の太腿に注射をするシーンに代表される残酷でエロチックな描写の数々、アコースティック・スウィングで踊る舞踏会のイメージ、明らかに第4話シャブロル篇にまでフィードバックさせたであろう超現実的な音響操作&痙攣的モンタージュ・・・。ちょっと意外なほど舞台にお金かかってるんだよね。ふとフアン・ルイスブニュエルに莫大な予算を与えて『バットマン』を演出させたら、あまりに真っ黒すぎて上映禁止になるだろうなと夢想した。褒め言葉として淫靡にして陰惨。IMDbのコメント欄で語っている方たちの「精神的外傷」が、ものすごく理解できる出来になっている。


追記*「精神的外傷」はものの喩えですよ。念為。