『フルスタリョフ、車を!』(アレクセイ・ゲルマン/1998)


先日アップリンクにて数年ぶりに再見したアレクセイ・ゲルマンフルスタリョフ、車を!』に完全に打ちのめされた。いったい何の巡り合わせなのだろうか。このタイミングでこの怪物的な作品を浴びることのできたことの大きさを、全身を貫く心地よい痛みのように感じている。実際のところ、『フルスタリョフ、車を!』の全てのショットには閃光が走っていた。あまりにも圧倒的な光景だった。カメラは目の前の出来事をとらえるのではなく、出来事自体が矢継ぎ早にカメラに投げつけられるかのようだった。美醜さえ問わない、あらゆる世界の塵がもの凄いスピードでカメラに吸い寄せられていく。どこから何がとんでくるか分からない。予測のつかないパンチ。ここにはどこの誰が漏らしたのか分からない糞尿さえとんでくるだろう。『フルスタリョフ、車を!』において、カメラとは世界のあらゆる塵を吸い寄せる磁石にほかならない。映画の冒頭で、鏡に向かって鉛のような唾を吐いた少年のように、カメラという世界の塵を吸い寄せる磁石は、そのまま世界の鏡として観客の前に立ちはだかる。列車に揺られながら「自由だ、クソ野郎!」と叫ぶ終盤において、そしてあの素晴らしい列車移動のラストショットにおいて、いままで世界の磁石として機能していたカメラから、まるでS極とS極の同じ磁極で引き離されるように、対象(世界の塵)が遠く遠くへ離されいくのは、この映画の力強い希望なのだろう。『フルスタリョフ、車を!』とは、糞尿まみれの壮大なコントのようであり、絶望と希望を等価にする試みであり、二つの磁極そのものを描く、未来への爆弾だ。


追記*『フルスタリョフ、車を!』が公開されたとき、青山真治監督が『ポーラX』の「世界のタガが外れてしまった」という言葉にかけて、フレームの問題を提起していたのが思い出されます。