ポルトガル映画祭2010

『トラス・オス・モンテス』の満員御礼(!)でもってフィルムセンターでのポルトガル映画祭は無事終了。伝え聞くところによると『カニバイシュ』(オリヴェイラ)の上映で会場が笑いに包まれたんだとか。さて、楽しみにしていたわりに実のところ今回はあまり行けなかったのだけど、簡単な備忘録として記しておきます。


・『神の結婚』(ジョアン・セザール・モンテイロ/1999)


傑作『黄色い家の記憶』から続く「ジョアン・デ・デウス3部作」ラストを飾る本作の、反復の末に果たされた”結婚”に感動。モンテイロお得意のヒールキックは、スーツの下に隠し着していた当時のブラジル代表9番のユニフォーム=ロナウドよりも、全盛期のロナウジーニョの如き変幻自在のマジックにこそ似つかわしい。悪態老人モンテイロを長々と捉えたファーストショットでとても重要なアクションがある。立小便をするとき、葉っぱで陰茎を隠すというアクション。モンテイロ爺が葉っぱで隠すことによって、観客は唐突にカメラの存在を意識させられる。長いワンショットで見つめる悪態老人の”ドキュメンタリー”、その張本人がカメラを意識しているということを知らされるのだ。


ベッドシーンがたまらなく好きだ。あの長い長いベッドシーン。猛スピードのクロール泳ぎさえ可能な怪物モンテイロが、痩せ細った体を蛇のように這わせる。ここには老人的なフェティッシュな昂りを感じずにはいられない。体を這わせては何度も女性の股間の間に顔を埋めるデウスの、神にもすがるような信仰が赤裸々に露呈するシーンだ(と同時に女神に甘える幼児のようでもある)。このフェティッシュな信仰が本作と密接に結びついていることは言うまでもない。倒錯的なフェティシズムよりも遥かに重要なのはこれを長く撮っているということだろう。この長さが泣ける。



・『春の劇』(マノエル・ド・オリヴェイラ/1963)


エイゼンシュタインのようなド迫力の画面連鎖が基調になった上に、声が画面に先行する恐ろしい作品。その伏線は最初にキリストが登場するときの声の奇妙な位相に既にあった。また、女性がキリストの到来を町中に告げる声で、あれよあれよと「劇」が動き始める激動の展開。磔刑にされたキリストに向けられた霊的な悲鳴(奇妙な高音=唄)。そして始まりの激動のアクションを反復するかのようなキリスト死後の大移動大会。本作への「ターニングポイント」というオリヴェイラ自身の言葉を踏まえることが、ラストの逸脱も含め、以後の作品群を紐解くヒントとなるだろう。凄い!


・『トラス・オス・モンテス』(アントニオ・レイス、マルガリーダ・コルデイ/1976)


アントニオ・レイスの『Jaime』は精神病院を捉えながらサッチモシュトックハウゼンがブースト・ミックスされているノスタルジックでありながら夢魔的な、時空間の捻じ曲がった作品だと記憶している(以前抜粋を体験)。この伝説的な詩人・映画作家による長編処女作には早速時制がない。河を越えれば羊は白から黒へ変わるだろう。子供たちは自らの祖先と出会うだろう。「リスボンの春」革命と同時代に裏で撮られていたこの作品の舞台は、一国を転覆させる革命すら他人事のニュースにしかならない僻地だ。彼らは貧しく、ここで生まれここで塵になる。遠くへ去っていく父の馬車のロングショットと闇夜に浮かぶ蒸気機関車の煙がとりわけ印象深い。シュールレアリスム的なイメージAとイメージBの衝突から生まれるポエジーではなく、イメージAがそこに留まることでイメージA’、イメージA’’に変化していくような独特のポエジー


プレイベントの『アニキ・ボボ』を無理矢理含めても5本しか見れなかった。『私たちの好きな八月』(ミゲル・ゴメス)についてはもう一回DVDで見たら書くかも。一度DVDで見た作品でも川崎やアテネで再見しようと思います。