『テトロ』(フランシス・フォード・コッポラ/2009)


父コッポラ待望の最新作『テトロ』の空恐ろしさは、ぐにゃりと歪んだ時計の如く超現実空間を旅していた『胡蝶の夢』の恐ろしさと似て非なるものだろう。南米ブエノスアイレスという超現実が日常空間のデフォルトとなっている舞台を選んだせいだろうか?『胡蝶の夢』のトーンはそのままに、『胡蝶の夢』以降のストーリーテリングの深化や、それが自らに課された使命であるかのように光と闇の狭間に深く深く潜行することで得た鋭利な凶器=映画が、具象を引き裂く。全ての画面には呪われた血、官能の血が噴出の一歩手前でドクドクと脈打っている。スリリングであるがゆえに危険なそれらは、文学的なまでに周到に入り組んだ伏線/複線を、人物と人物の鏡像、既に書かれた言葉と現在書かれようとする言葉(文字)との鏡像、その忠実なる切返しによって、目も眩むような血縁の物語へ昇華させられる。それらがスクリーンそのものを主題としていること、闇を照らす光にこそ生死が賭けていることが私たちを動揺させる。『テトロ』は消えない傷痕だ。『テトロ』は巨大な映画の怪物だ。



テトロ=ヴィンセント・ギャロという過去を消去した男の物語は書かれた小説に先導される。「詩のない詩人」である父との物語=歴史自体が小説化=フィクション化されることで、同じ父を持つ実の”兄弟”とも”友人”とも呼ばれるオールデン・エーレンライクの過去は空洞になる。エーレンライクは予め失われた過去(物語)を描く必然があった。興味深いのはやはり反転された文字、反転された物語の模写という経緯だろう。つまりストーリーの直線軸は例え過去のフラッシュバックに拠ったとしても、フラッシュバック自体がフィクション化される為、エクリチュールは常に今、此処で更新せざるを得ない。その互いに競い合う(「競争心」という言葉が劇中に出てくるのも興味深い)更新はスリリングであり、又、それが人間同士に留まらない言葉同士の鏡像、切返しであることは、頻繁に出てくる鏡によっても明らかだろう。被写体は人のみならず、書かれた、そして次の瞬間に書かれよう言葉なのだ。それら全ては関係性の中で生まれる。何より恐ろしいのは、それをバレエ(『ホフマン物語』の引用。そしてパウエル=プレスバーガーへの言及)の中で、それを指揮する者がいるということだ。握られた指揮棒が宙に描く楽譜=宿命からの突破。


ヴィンセント・ギャロが舞台を照らす照明が美しいモノクロフィルムを真っ白にトバすとき『テトロ』がこちらに差し出す無垢な血管が浮かび上がる。クラシックな悪女風なメイクで複数のモニターに映りこむ女の顔、顔、顔。台本、音響、照明、舞踏・・・。繰り返そう。『テトロ』は消えない傷痕だ。『テトロ』は巨大な映画の怪物だ。大傑作!


『テトロ』@ラテンビート映画祭。次は21日の上映。急遽23日にも上映されることになったようです。この機会を見逃すなかれ。一般公開熱望。
http://www.hispanicbeatfilmfestival.com/


追記*輸入DVDを持っているのだけど特典映像見てからまた記事書きたくなるかも。それよりスクリーンでもう一回見たい。『勝利を』に続いて映画館で見ることにこそ意義のある作品なのです、これは。


追記2*一言でいえば(一言で言うな)、『テトロ』がモノクロで描かれることの巨大な意義。台本、音響、照明、舞踏そのものについての映画であること。


追記3*この作品で唯一ネタバレしちゃいけないところは伏せた形で書いてるので、既に見た人はそこを突っ込まないでくださいね。