『Chantrapas』(オタール・イオセリアーニ/2010)


フランス映画祭2011にてオタール・イオセリアーニ最新作。椅子に座った男2女1が三角形の「型」をつくり、互いの手と手を合わせるタッチを繰り出す冒頭から、イオセリアーニが振るう、ときに美しく、ときにくだらない「型」の連続に涙腺が緩む。汽車に掛けられた梯子に乗り込む3人の爽快な図でそれは早速、最高潮を迎える。これ以後のイオセリアーニは簡単に人が転んでしまう王道芸を挿みつつ、いつもながらの展開を用意する。しかしこの皮肉とユーモアに満ちた安心感は、前作『ここに幸あり』がそうであったように、慣れてくると正直、ときに退屈にも思えてしまうわけだけど(なんと贅沢な退屈だ!)、ここで終わらないのが『Chantrapas』(「歌えない人」の造語。意訳で「やくたたず」の意、とイオセリアーニ氏の弁)という作品が、こちらに深い呼吸を促すかのように、逞しい生命力の息吹を吹き込んでくれる所以なのだろう。たとえば主人公の青年が監督した「歌う花」たちが踏みにじられていく映像に対する抵抗のアンサーとして、この作品はフィルム自体の亡命が可能なことを繰り返し教えてくれる。劇中に現れる気球船の絵(この絵は文字通り大きな船に気球がついて浮いている絵だ)のように、フィルムという抵抗の伝達が託された「手紙」は、むしろ人間以上に何処にでも飛んで行くことが可能なのだ。ティーチ・インでの「私は革命を信じない」というイオセリアーニの表明は、このことを踏まえると、より豊穣な響きを持つだろう。



たとえば、個人的にこの作品の一部の登場人物の風貌には、巨体のオーソン・ウェルズ、不良老人ジョアン・セザール・モンテイロマノエル・ド・オリヴェイラといった偉大な映画作家たちの風貌を想起せずにはいられない。特にモンテイロのような風貌を持った主人公の祖父が起こす不良老人のようなアクションに惹かれる。街のごろつき不良少年のように「表へ出ろ!」とケンカをふっかけるこの老人の過去は、主人公がフランスへ渡ったとき、ビュル・オジエの記憶として内密に語られた(らしい)。フランスへ逃げても故郷と同様の苦しい映画制作環境にめぐり会ってしまった主人公に自由はなく、むしろ撮影されたフィルムという手紙が、ちょうど主人公の抱える鳥籠の中の伝書鳩のように、次から次へと意思のある移動を重ねることで、記憶という手紙=フィルムが、『Chantrapas』という作品の現在進行形で、スクリーンに投射されているかのようなのだ。あの汽車に乗った3人の反復が白黒画面で再現されること、オーソン・ウェルズのような巨体の男が出演するサイレント映画(ここには”フェイク”という至高のオドロキがある!)、そして多幸感に溢れた数々の音楽は、それを指揮する主体を離れて、大気の流れに身を任せる気球のように、此処にも何処にも亡命をすることが可能なのだ。これを私たちは映画の遍在性、音楽の遍在性と呼び、心の底から魅せられてしまったが故に、その力を信じている。主体そのものの亡命が描かれるクライマックスは、亡命する作家、亡命を続けざるを得なかった全ての作家へ向けられた、慈しみに溢れた至高の帰結にほかならない。傑作。


追記*歌まで披露してくれたイオセリアーニのティーチ・インは、すべてのアクション、言葉が、あまりに素晴らしすぎて涙をこらえるのが精一杯だった。


追記2*来年2月に岩波ホールで公開が決定しているそうです。邦題は未定。