『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』(ジョエル&イーサン・コーエン/2013)


     


ボブ・ディランがニューヨークに到着して景色を一変してしまう以前、プレ:ボブ・ディランのフォークシーンを描いたコーエン兄弟の新作『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』は、街の景色の隙間に記憶が沁み入っていくような、どうしようもなく愛したくなる作品だ。ギターの弾き語りとネコ。オスカー・アイザックはギターケースとネコを連れて旅をする。ネコに起こされ、ネコを追いかける。オスカー・アイザック自身がネコに導かれることでネコと同化していくかのように。オスカー・アイザック演じる放浪のミュージシャンの心象風景のように60年代のアメリカの景色が流れていく。音楽のような映画というものが存在するなら、このような映画のことを指すのだろう。何もないアメリカの風景を走る車にギターの弾き語り。ジャスティン・ティンバーレイクキャリー・マリガンがデュエットするカントリーソングに涙して以降、スッと入っていくように画面を愛してしまった。オスカー・アイザックジャスティン・ティンバーレイクのセッションシーンも素晴らしい。


  


インサイド・ルーウィン・デイヴィス』は、誰に向かって歌うのか?ということに関する、愛すべきポエジーに溢れた映画だ。この作品の中でオスカー・アイザックがライブハウスのほかに、一対一で正面に向かい合ってギターを弾き語るシーンが何度か出てくる。弾き語りの対面する相手は1960年代初頭に生きる老人。このとき老人に当たる照明は意図的に陰影を深く強調する。一対一の関係でありながら向かい合った相手は、老人である以上に、何処か記憶の壁のような物質的な存在にすら思えてくる。このときルーウィン・デイヴィスの奏でる音楽は、いったい誰に向かって歌われているのか?ということを思う。フォークミュージックを対面で聴く老人が、ふと窓の外に視線を送るとき、この歌の向かう先が目の前の老人ではなく目の前の老人を介した、複数のアメリカの風景の記憶、複数のアメリカの人の記憶と、とめどない広がりをみせていく。メランコリックであり、ノスタルジックでもあるこの風景が、フレームの内にもフレームの外にもあることを知るのだ。コーエン兄弟の持つケレン味がこの作品ではとても豊かに、複眼的に活かされている。忘れ去られた歌い人の見た風景。ルーウィン・デイヴィスがこの映画のラストに見た風景。本当に抱きしめたくような作品だ。おめでとう、コーエン兄弟


  


追記*『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』は完全にネコ映画です。ネコと暮らしている人(自分)は、絶対に「あるある!」って思うはず(笑)。コーエン兄弟、よく分かってるな〜。今年の夏に日本公開だそうです。前倒し公開してほしい気分だよ。