『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』(塩田明彦)
イースト・プレス様からご厚意で塩田明彦著『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』をご恵贈いただきました。個人的にとても楽しみにしていた本なので光栄なことであり、且つ期待通りの刺激的な本だったのでご紹介します。
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アテネ・フランセで行われた塩田明彦監督による映画美学校アクターズ・コースの連続講義を採録した、この『映画術』というタイトルが冠された書物は、一本の映画を構成する細部を明晰に分析しながら、一本の映画の分析しきれない魅惑的なミスティフィカシオン性に迫っていく。塩田氏の語りは、映画の構造的な細部への明解さから出発することで、逆に曖昧さ、映画の持つ余白(それをポエジーと呼ぼうか、人生と呼ぼうか)へと導いてくれる。俳優という職業のため、あるいは映画の作り手を志す人のための語り、と聞くと技術的な要素(「どのように」)、がメインに語られることが多いが、塩田氏の『映画術』の本質的な面白さは、「どのように」と「なにを描くか」との決定的な結びつき、カメラの前における演技と演出の決して分けて考えることの出来ない決定的な関係を、一本の映画をなぞるように語っているところだ。とてもユーモラスな語り口で。そう、この決定的という言葉こそが映画なのだ。「動線」「顔」「視線と表情」・・・といった映画を構成する細部によって全7回に分けられた講義は、すべて一つのこと、この「決定的」という、映画の持つ不可解な魅力へと開かれていく。
たとえば、「動線」(画面における人物の動き)を語ること=「演出」は、俳優の「演技」を語ることと同じだ。成瀬巳喜男の傑作『乱れる』に張り巡らされた成瀬の設計(第1回講義)を賞賛することは、同様に高峰秀子と加山雄三の演技を賞賛することでもある。分けて考えることはできないのだ。アルフレッド・ヒッチコック『サイコ』のジャネット・リーとアンソニー・パーキンスのサスペンスフルなやりとりと、ガス・ヴァン・サントによるリメイク版『サイコ』における同じシーンの演技/演出の比較(第2回講義)が、それを明晰な形で明かしている。ここでの演出の心理、演技の心理の正反対なアプローチへの指摘はとても示唆に富んでいる。ここで語られる塩田氏の言葉を借りるところの「無意識の積み重ね」が、小津安二郎『秋刀魚の味』の岩下志麻の演技、小津の設計する動線(第3回講義)、三隅研次『座頭市物語』の演技・設計(第4回講義)に展開されていくという刺激。すべてが一つのこと=複眼性に繋がっていく。
『サイコ』(アルフレッド・ヒッチコック/1960)
個人的にとても刺激的だったのは全講義の内二度登場する増村保造『曽根崎心中』における梶芽衣子と、最終回のジョン・カサヴェテス映画の登場人物たちの演技・演出のアプローチを取り扱った回だった。『曽根崎心中』という作品は一度見たら生涯忘れることのできない作品なのだけど、あの映画における梶芽衣子の演技、危険すぎる視線の在りどころが如何にして増村保造の設計をも越えていったか。また、ジョン・カサヴェテスの映画におけるエモーションの在り方への指摘。この本を読んで改めて『こわれゆく女』を見直したときの驚きはとんでもないものがあった。ワンシーンの中で、ジーナ・ローランズやピーター・フォークが繰り広げる複層的な感情の変化、その感情の集中地帯のようなスピード(カサヴェテスは待ったなしだ!)。演技・演出が複眼的/複層的であることは、そのまま映画が複数の人間による共同作業であることを強く思い起こさせる。
『こわれゆく女』(ジョン・カサヴェテス/1974)
ロベール・ブレッソンやカール・テオドア・ドライヤーの作品を紐解きながら、最終講義に『ジョン・カサヴェテスと神代辰巳』という、映画の決定的なミステリーへ展開していく構成も素晴らしい。演技・演出の結びつきへの複数の問いを経由することで、いつの間にか、画面の内(映画)と外(生活)を同じように思考しはじめている自分に気づかされる。つまり、塩田明彦による『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』は、映画のリアル/アンリアルの彼岸=決定性へ向けられた書物なのだ。
追記*『月光の囁き』のスチールを探していたら泣きたくなってしまった。忘れられない作品だ。塩田明彦著『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』は1月22日発売!
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