『悪意の眼』(クロード・シャブロル/1962)


60年代シャブロルを2本。こちらは女優ステファーヌ・オードランを主演に添えた連作の記念すべき第1作。どことなくアントニオーニを思わせるモダンな愛の不毛の風景が、シャブロルの天才的な”置いてきぼり”の演出によってガラリと空気を一変させてしまう。細部の演出の突出が所謂サスペンスという枠組みから大いなる跳躍を果たす。たとえばヒッチコック→シャブロルのラインは諸外国の批評でもよく見かけるが、シャブロルの映画の魅力とは、サスペンスの名手としての力量では到底計れるものではない。ときにサスペンス映画として緩慢な演出でありながら、その豊穣な土壌に新種の/奇形の/贅沢な種を撒くことに成功しているのがシャブロルの映画だ。この種が常に現在/未来に向けられているということが、シャブロルを常に現代映画作家と看做す私たちの根拠だ。たとえばあの素晴らしい『気のいい女たち』(個人的に偏愛している)の罪のない手で犯されるプールシーンの、もがき苦しむ女の子たちを思い出そう。



『悪意の眼』はシャブロルのお家芸である”置いてきぼり”の演出が「笑い」のなかで留保する。男女3人の笑いの齟齬やタメの演出が素晴らしい。ジャーナリストである主人公がオードラン夫婦(夫は作家)に誘われ、海(湖?)にボートで繰り出すシーン。主人公の泳げないという恐怖と周囲の無邪気な笑いの対比が、内と外で別々に並走する音響/編集処理に明らかなように、多勢の笑いは一致しない(『いとこ同志』に通じる人物構図)。またここでの水面ギリギリからボートに立って歌う男女をロングで捉えたジャン・ラビエの不安定なショットが透明な美しさを放っている。同時にそれは不安と笑いが一緒のものだということを証左する。主人公が置いてきぼりにされた笑いが、ある秘密を握ったことによって反転/反復してしまうバカ笑いのシーンが恐ろしい。ここで置いてきぼりになるのは秘密を握られたオードランだが、主人公はオードランを置いてきぼりにすることで、その高らかな笑いを孤立させてしまう。それは叫びによく似ている。



ステファーヌ・オードランの美しさは圧倒的だ。ベルナデット・ラフォンのような直感的な運動をフィルムに刻む天才ではなく、オードランは彫刻のように超然としながら生まれ持った知性とその崩れをフィルムに刻む。子供のように快活で芸術肌の夫のミューズとして「君臨する」といったらよいか。人を魅惑する支配の手綱が逆転したかに見えたところの残酷さがシャブロルらしい。主人公が息せき切って視界に取り込む「カメラアイ」が捉えた愛の光景の反転が、そのまた死の光景とネガ/ポジの関係を結ぶ。そう、「すべては同じ(ひとつの)こと」なのだ。最後に彼女の見た視界こそ、彼の見たカメラアイの残酷な切り返しなのだ。傑作!


思わず長くなってしまったので最初期シャブロルの最高傑作である『ダンディ』はまた明日。まだ私たちは本当のシャブロルに出会っていない!


追記*『悪意の眼』→『欲望』(アントニオーニ)→『カンバセーション』(コッポラ)のラインを思う。ブロウアップ!