『ウィンブルドン・スタジアム』(マチュー・アマルリック/2001)


日仏学院ジャンヌ・バリバール特集上映」追加上映にてマチュー・アマルリック監督作品。英語字幕付き。前回は無字幕での上映だったためか雰囲気でしか掴めなかったアマルリックの意図が、言葉を付け加えることにより鮮烈にして鮮明な形で体に染み渡った。聡明な知性によってコントロールされたこの作品を前に、マチュー・アマルリックは天才なんじゃないだろうか?とさえ思った。スクリーンを真っ白なキャンバスに例える言い方に倣えば、『ウィンブルドン・スタジアム』は真っ白いキャンバス(又は白紙のノート)へのエクリチュールそのものを描いた映画だ。たったいま書かれつつあるエクリチュール。広大な青い空に飛行機雲が描く真っ直ぐな描線のように、それは描かれつつやがて消えてしまう運命にある。それは一遍の詩だ。”探偵”ジャンヌ・バリバールの求める真実は浮かんでは消える風景だけをインスピレーションの源とした一遍の詩の中にしかない。



「著作のない作家」の肖像を求め旅をするジャンヌ・バリバールは、列車の故障により止むなく途中下車した景色のなかで、異邦人として迷い込んだイタリアの街路のなかで、見ず知らずの人たちとの会話のなかで、それぞれが点でしかない手掛かりを掴む。が、見知らぬ地でようやく辿りついた手掛かりは既に手掛かりですらない。「著作のない作家」の肖像は、むしろジャンヌ・バリバール自身の絶え間ない移動の隙間の中に、一遍の詩のように浮かび上がる。作家は存在しない。書かれたものも存在しない。映像という記録だけが劇中の人々の曖昧な記憶のように複数の肖像=作品を線描する。人々の心を魅了する美しいエクリチュールはいまこの瞬間だけにしか存在できない。『ウィンブルドン・スタジアム』は一遍の詩の絶対性、永遠と消失を求める物語なのだ。その意味で幼い子供が録音する言葉以前の意味不明な声にジャンヌ・バリバールが微笑むシーンは面白い。コドモはその場で録音したものをその場で聞く。この瞬間にしか生まれなかった言葉以前の言葉の記録と、「記録されたもの」としての発見がここにはある。


ウィンブルドン・スタジアム』のジャンヌ・バリバールは始まりと終わりでシンメトリーな関係を結ぶ。車窓から流れる鮮明な景色の横でピンボケしていたバリバールの顔は、ラストで反転する。彼女の顔に創造の光が当たる瞬間だ。「書くことの戦争」として彼女が佇むスタジアム。競技場を見下ろす彼女のまなざしの中にだけ一遍の詩は生成させる。バリバールは景色全体にサラウンドされる。途方もなく美しい。


追記*ベストショットはポスターの画像。抜粋画像と共にこの一連のシーンは境界線を越える。


追記2*『ウィンブルドン・スタジアム』は10月のカイエ・デュ・シネマ週間でマチュー・アマルリック監督特集として再上映されます。日仏学院の先の日程については会報誌「ENCORE」最新号に詳細に掲載されています。Twitterにもツイートしたのでそちらをご覧ください。


追記3*2回見て大正解でした。今年の旧作ベスト入り!