川上未映子×菊地成孔@Hakuju Hall

今週末から公開の『パンドラの匣』(富永昌敬)が楽しみな(テアトル新宿での初日舞台挨拶は残念ながら行けないのですが)川上未映子さんが菊地成孔氏のイベント「NIGHT DIALOGUE WITH」の初回ゲストということでHakuju Hallまで行ってきました。ここHakuju(白寿)Hallは普段はクラシックのコンサートやピアノリサイタルなんかが催されているスペースらしいです。会場に着くとスクリーンに『パンドラの匣』の予告編と出演者のインタビュー映像が。思わず笑ってしまったのは富永監督がテーブルとか運んだり雑用係をやってるとこ。トーク&DJ&伴奏付き朗読(歓喜!)。


両者のファンである私が言うのもなんですが、2人の共通点というのは実のところあまりないように思われる。強いて言えば「饒舌」というところぐらいか。ただ菊地さんのどんな相手とも話をグルーヴさせてしまう能力に似たものを未映子さんにも感じてはいます。『アフロ・ディズニー』(名著!)の延長のような「レコード鑑賞会」(70年代モリコーネ〜ロシアの現代音楽〜スティールギター・ジャズ、まで飛び出す選曲、独特な空気が面白かった!)が終わり、いよいよ未映子さんの登場。マイケル・ジャクソンを意識したという(?)キラキラな装い。文芸誌ならまずカットされてしまうような、ぶっちゃけたトークの内容はここに書けないものを含むので(笑)、興味深い点をいくつか。


編集者やディレクターに自分の作品が認められるかどうかを気にする(ダメ出しとか)のは「父子関係」(相手が女性でも)の問題(「父子関係」の切磋琢磨がよりよい作品を生む装置となるケースもあるので、当然ながら至って健全な関係ともいえる)なので、「母子関係」に強いオブセッションを持つ菊地さんは「ダメ出し」を一切気にしたことがないとのこと。一方で未映子さんは芥川賞受賞作『乳と卵』をこの「父子関係」(デビュー時から受けてきたダメ出し)の中で書き上げた、というくだりに妙に納得がいく。というのも『乳と卵』はものすごく計算された小説に思えるから。このあと『乳と卵』の「構造」の話へ。より多くの人に届けるための「父子関係」を利用する話へ繋がっていく。利用というと表現における不純を感じるかもしれないけど、重要な話だよ。


美醜の問題。「川上未映子は美しいかブサイクか」。この美醜の問題はどうでもよい話に聴こえるかもしれないけど古典性と常時の現代性を抱えている。外見の美しさの価値観は時代と共にめまぐるしく変わっていくもの。美しさの多様性、ということならフェティシズムの間では全てが美しさの対象となりうる。個人的には、たとえば川上未映子さんを、その美しい「顔」で本を売っていると批判する人がいるならば、なんというか状況認識が牧歌的、サークル的すぎるかな、と思わざるを得ない。


と、真面目な話も入り混ぜつつ殆どの時間、会場は笑いに包まれていたのだけどね。未映子さんの「元ストーカー」発言とか、菊地さんの「痴漢事件」とか笑かせてもらいました。2人のトークのグルーヴ感が止まらないので予定を大幅に延長、途中で打ち切り。最後は伴奏付き朗読で締め。菊地さんの現代音楽みたいなピアノに合わせて「少女はおしっこの不安を爆破、心はあせるわ」(『先端で、さすわさされるわ そらええわ』収録)。「ブラボー!」と叫びたくなるほど素晴らしい演奏、朗読だった!


追記*美醜の問題は”苛烈な小説”『ヘヴン』を読んだ方にはお分かりの通り、あの作品が迫る問いの一つでもあります。『アフロ・ディズニー』の如く視聴覚分断講義のような「レコード鑑賞会」、未映子さんをイメージしたというスティールギター・ジャズやブラジルのカルト、ギンガの曲は「楽器をやってる人なら、これがどんなに狂った構造か分かる」のだけど、なんだか普通に滑らかにムーディーに聴けてしまう、という狙いの選曲らしいです。『ヘヴン』が、というより未映子さんの作品の独特のリズム感(音楽との関係に関しては一貫してNO!だそうです)に心地よさを覚えると、ハードコアな哲学や倫理学を介した言葉の冒険、妙な構造に出くわすところ、と似ているということだろーか?そうそう、『黒い罠』(オーソン・ウェルズ)のラテンジャズ(ヘンリー・マンシーニ)で登場したんだった。素敵です!話が終わらないのでここまでで。


パンドラの匣』は今週末より上映。菊地さん曰く”川上さんでブッちぎる!”。
素晴らしい予告編。

ヘヴン

ヘヴン

先端で、さすわさされるわそらええわ

先端で、さすわさされるわそらええわ