『ナタリー・グランジェ』(マルグリット・デュラス/1971)


ハリウッドスターを迎える普段の放送より緊張感と高級感が5割ほど高いと思われるジャンヌ・モローがゲストの「アクターズ・スタジオ・インタビュー in パリ」(@シネフィルイマジカ)は、モローのユーモアを交えた知的な語りも必見なのだけど、途中から煙草を片手に質問に答えるモローと舞台に燻る煙がどうしようもなくカッコよくて保存版になっている(大女優に敬意を払ってか恒例の生徒による質問コーナーはなし)。其処で抜粋映像と共に語られるモローの監督作品『リュミエール』はデュラスの『ナタリー・グランジェ』と影響関係にあるというから是非観てみたいものです。モロー自身は「あれが芸術かは分からないけど」と謙遜してますがIMdbを開くと絶賛してる方もいるみたい。同じく『リリアン・ギッシュの肖像』のソフト化を希望します。というわけで輸入DVDで、『ナタリー・グランジェ』。


導入、つたないピアノの練習曲が響く中、屋敷の内側から白い壁や窓枠をなぞるようにパンしながら人物へと向かう撮影が、早速、通常の所謂”エスタブリッシュ・ショット”(=状況説明のための空絵)とは全く異なっていることに気づく。この作品にあって人物はむしろ背景であり、この屋敷こそが主役なのだ(副題は「女の館」)という宣言のようでもあるし、と同時に、背景や人物は何時でも交換可能な等価な存在として在ることが徐々に判りだす。デュラスの小説を読んでいるときに陥る、窓枠の中のような異境が現実と並置されては、等価な世界として描かれるあの感覚を思い出す。



実際、ジャンヌ・モローとルチア・ボゼー、少女ナタリーとローレン、準主役の黒猫は、屋敷のなかや目の前の森、小さな湖、という限られたロケーションの中で、その身体自体がフェイドイン/アウトしているかように徘徊する。窓枠の向こう側で黒マントを着たルチア・ボゼーが横切る様は亡霊のそれだ(屋敷に纏わる「300年」の歴史というデュラスの発言)。ここでは白と黒の衣服や髪の色でシンボリックに分けられた大人の女組、少女組、そして猫さえもが交換可能な双生児となる。ナタリーが黒猫をベビーカーに乗せて、猫が嫌がって降りると、白黒の猫が現れるという流れが面白い(つまり猫が分裂するのですよ!)。ここでの美少女ナタリーの横顔アップは残酷なまでに美しい。直後、少女はベビーカーを力一杯、投げやる。『モデラート・カンタービレ』を想起させようピアノの音が消え入るように止んで、モローとボゼーがソファーで天を仰ぐ静止画のような長い時間に官能と退廃が宿る。


若かりしジェラール・ドパルデューが洗濯機を売るセールスマンとして登場する。モローとボゼーに「あなたはセールスマンじゃない」と素っ気ない態度で何度も否定されるドパルデューの挙動不審な動きが笑える。出戻りのドパルデューが屋敷のピアノの音に憑かれ徘徊に繰り出す内に逃げ行く姿を窓枠越しに捉えたラストが素晴らしい。


DVDにはボーナスディスクとしてリュック・ムレ(制作)とブノワ・ジャコー(助監督)らのインタビューが入ってて、そちらも面白いです。リュック・ムレが「マルグリッ・デュラス」としてインタビューを受けたというジョークっぽいエピソードとか「フランスで売るのが一番難しかった」(デュラスの映画作家としての才能をなかなか認めたがらなかった)とか。ジャンヌ・モローが紅茶を作る家族のような現場の雰囲気などが語られています。


真にオルタナティヴでありながら宝物のように思える作品。DVDで何度も見れるのが本当に嬉しいのです。デュラスのDVD手に入るものはすべて集めようかと思います!


追記*ちなみに撮影はベッケル、ドゥミ、ブレッソンで知られる名手ギラン・クロケ。全編に渡って素晴らしい仕事をしています。特に蓮の浮かぶ水際のパンが美しい。あと屋敷のタイルが白と黒というのはとてもコンセプチャルですね。最も大事なことを書き忘れたけど、音響面ではピアノの音と共に殺人事件を伝えるラジオ放送が何処からともなく全編を支配しています。「300年の歴史」とは「ある時、あることば、ある瞬間を永遠化した」屋敷を前にデュラスが夢想した歴史。「マルグリッ・デュラス」は海外の映画祭でマルグリット・デュラスを知らない人がイタリア語読みでなんとかなんとか、とムレ氏が楽しそうに語っていました。