映画は監督のものか?

暇つぶしに近くにあったR25のオダギリジョーのインタビューを読みながら「映画は監督のもの」問題について考える。そこでオダジョーが特別なことを言っているわけでは勿論なく、「映画は監督のもの」発言はどんな役者さんからも聞かれるごく真っ当な意見だし、そこに何の間違いもないのだけど、それを聞かされる映画作家の中には一抹の寂しさを覚える人もいるかもしれない。


フレーム内の隅々まで徹底的に管理する映画作家がいる一方、フレーム内の偶然の映り込みを待つ(やはりこれも管理する、なのだが)作家もいる。どちらの態度が良い悪いの問題ではなく、どちらの態度も映画である。ここで問題にしたいのは「権力」の問題。映画作家はその映画に対して絶対的な「権力」をもっている。ならばその「権力」を出来ることなら捨ててしまいたい、映画の中の「自分=権力」を消してしまいたいと願うのは、映画は自己実現ではないと、主張する作家ならば決して不自然な思考ではない。先日の日仏学院でのラバ=アメール・ザイメッシュ氏と青山真治氏の対談でもっとも興味を引かれたのもこの問題だった。非常に私事で恐縮なのだが、自分も自主映画を撮る際、このことをよく考えていた。どうすれば映画が監督のものではなくなるのか?どうすれば自分を消せるのか?(答えは未だなし。。。)


青山さんによると、そのことに唯一成功したのがジャン・ルノワールの『ゲームの規則』である、と。ルノワールは自らが映画に出演し「影」になることで、むしろ周りを際立たせることに成功した、と。その周りとは役者さんのことであり、もっと広く言えば映画そのもののことなのだよね。まったくその通りだ、と深く頷いた。『ゲームの規則』の出演者は作家の決めたフレーム内で機能的に動く単なる「駒」ではない。あたかもフレームを超えるかのように、その場その場の生命を生きる役者たち。ここでは作家ではなく彼ら、そして映画が主役なのだ。


是枝裕和氏の『ディスタンス』(2001)という作品がある。この作家の作品への評価云々は棚にあげて続けると、この『ディスタンス』という作品でおそらく是枝氏が目指したのは「役者の演技をフレームから開放する」ことだと思う。ともすれば自堕落な演出放棄にしかならない言葉と動きによるアドリブの応酬。『幻の光』での厳格な構図主義からの反動(後に作家自身が「静的なものを静的に撮ってしまった」と批判的に述懐している→『国際シンポジウム 小津安二郎』参照)もあるのかもしれない。それが成功してるのか失敗してるのかはともかく、やりたいことはよく分かるな、とは思った。


「映画はドラマだ、アクシデントではない。」という小津安二郎の言葉も逆説的に響く。『彼岸花』(1958)の笠智衆の唄で号泣してしまうわけは?まるで時間が止まったかのようなあの空間を見ると小津であって小津でない映画の瞬間が訪れた気がするのです。


果たして映画は監督のものなのか?映画は映画作家のものでなくなった瞬間に真の輝きを放つのではないか?監督という署名はその映画の全てについて責任を持つ者、くらいの方がいいのではないか?もしも役者さんが映画を自分のものと思ってくれたなら、作家にとってこれ以上の幸せはないと思う。答えは見つからないけど考えていくことは重要なことのように思える。もちろん映画を見る上でもだ。とりとめがないですね。ギャボンッ。