『悪党岬』(ジュリエット・ベルト&ジャン=アンリ・ロジェ/1983)
ジュリエット・ベルト特集その2。ジャン=クロード・ブリアリ、ベルナデット・ラフォンら豪華キャストが脇を固める長編第二作『悪党岬』は、決定的に夜の映画だった処女作『NEIGE』とは対照的な、決定的に昼の映画といえる。この「陽光のフィルム・ノワール」とでもいうべき異形の傑作にセルジュ・トゥビアナは「現代フランス映画の最も美しい成功作」という最大級の賛辞を贈っている。撮影監督のウィリアム・リュプチャンスキーに加え、キャロリーヌ・シャンプティエ、更にはレオス・カラックスの「アレックス3部作」のカメラマンとして名高いジャン=イヴ・エスコフィエ(!)が参加した本作の撮影は、この3人の才知の結集による「到達点」とすら思える、空恐ろしいほどの画面の輝き(と驚き)に溢れている。『悪党岬』の真横に並べられるべき同時代の作品とは、レオス・カラックスの『汚れた血』を置いてほかに思い当たらない。マルセイユの港に射す眩しい陽光は、ジュリエット・ベルトの纏う原色のドレスに反射し、その光が眩しすぎることが却って闇と光の溶解するところ、その臨界点を浮かび上がらせているようだ。マルセイユの港を臨む、はるか海の向こうの地平線に合わせて、なぞるようにパンしていくカメラが赤色のドレスを着たジュリエット・ベルトを捉える長い長いファーストショットの軌道が、それを最も美しい方法で表している。
まるでジュリエット・ベルトが何人もいるような錯覚に陥ってしまう。同じ型のドレス(ワンピ)を赤、青、黄、白と原色の色使いで纏う彼女は謎めいている。『悪党岬』において、彼女には同じ型のドレスを着るか、全裸か、の二つしか選択肢がないようだ。悲しみに暮れる女のようであり、誰とでも寝る女のようでもあり、打算の利いた女のようでもあり、享楽の徒でもあるジュリエット・ベルト。盛り場に登場するチャイナ服を着たミステリアスな女性が演奏するブルージーなジャズピアノ(以後この女性のテーマとして登場する度に使用される)は、このミステリアスな女性だけでなく、ジュリエット・ベルトのテーマ曲、さらに言えば登場するすべての女たちのテーマ曲でもあろう。復讐すべき組織のボスであるジャン=クロード・ブリアリと暮らすベルナデット・ラフォンさえ、その視線は謎めいている。男性作家による崇拝や、女性作家による連帯でもない、ひとりの女性が「ただそこに在る」ということへの突き放した距離が興味深い。
パンニングによるダイナミックな山火事のショット、セスナ機による消化剤のショット、ニューウェイヴ/ノーウェイヴな音楽がバックに流れる車での移動ショット、立体駐車場をぐわんと上昇するショット、極めつけはこの立体駐車場でバンドが演奏するショット。広角に開いたカメラが即席ステージに向けて前進していくと、バンドの演奏の周りをバイクが爆音を立てて周回する(このバンドの痩せ細ったボーカルの女性が同じくミステリアスだ)。このスペクタクル。そして陽光の射すマルセイユの港、及び、ラ・カネビエレの絶景のスペクタクル。しかしながらこのダイナミズムは、ファーストショットの空と海が溶ける地平線の平行移動がそうであったように、あくまで臨界点に向けられたショットのように思える。だからこそジュリエット・ベルトは夜の断崖で暗黒舞踏を踊るかのように土塗れになるし、ブリアリの最後は夜の断崖だ。バーのシーンの撮影でジュリエット・ベルトが次々とドアを通り抜けては、その度に緩やかに変化していく音楽と騒音の消え方/現れ方、その溶け合いの設計。
クラシカルなアメリカ映画に出てくるような不良たちの並びさえ眩しいこの港町で、とうとう復讐に成功したジュリエット・ベルトが迎える驚愕のラストに、誰もが目を疑うだろう。マルセイユの眩しすぎる陽光と底なしの闇がギリギリ溶け合う場所へのダイブ。彼女の元に彼女の視界が開けるだけのおぼろげな光が届き続けることを祈らずにはいられない。ジョゼフ・コンラッドの旅立ちの言葉に導かれた物語は、消えた金銭と無人の帆船の旅立ちと空撮によって当てのない放浪と彷徨のときを迎える。ねむり姫は目を開けたまま其処で世界のすべてを目撃するだろう。それとも世界には無人の帆船しかなくなってしまったのだろうか・・・?
個人的には、カラックスの映画と同じくらいの思い入れで、これから何度も見直す作品になりそうです。超傑作。そしてジュリエット・ベルトの監督作品をあと1本見れるという喜び。DVDを貸してくれたT氏に多謝。
追記*『NEIGE』もそうなんだけどジュリエット・ベルトはバーのシーンの撮影が抜群にいい。それこそ『デュエル』を想起させます。