『トスカーナの贋作』(アッバス・キアロスタミ/2010)


渋谷ユーロスペースにてアッバス・キアロスタミの新作。かつてゴダールはカラックスの映画について「カラックスは映画を複雑に撮りすぎる。映画はもっと単純なものだ」と語ったものだけど、果たして映画における「単純さ」とはいったい何のことだろうか?「映画は出来るかぎり単純な方がいい」という言葉はゴダールに限らず何度も繰り返されてきた文句であるにも関わらず、それを実現した映画作家はそうそういるものではないだろう。それは何故か?『トスカーナの贋作』の台詞に倣って言うならば、単純さはそんなに単純なものではない、ということだろう。あなたや私が世界や他者に対して単純でいられないように、映画だって単純ではいられないのだ。ここで重要なのは『トスカーナの贋作』でキアロスタミは決して映画の「単純さ」を獲得したわけではない、ということだ。そうじゃなくて、キアロスタミは「単純さ」について乱反射する複雑な回路で思考しながら、その思考の辿る「道」そのものを映画にしてしまった、ということなのだろう。『トスカーナの贋作』は「単純さ」を巡る映画だ。思考を試行と言い換えてもいいだろう。それが実験であるがゆえにキアロスタミの思考の「道」はスリリングに私たちを感動させる。『ロード・オブ・キアロスタミ』(2006)という未公開の短編の中にこんな言葉があるので以下に紹介する。


「道とは存在であり、風であり、歌であり、旅であり、そして不穏である」



とはいえ私は『トスカーナの贋作』という抱きしめたくほど大切にしたい映画との出会いを回りくどい言い方で語りたくない。カラックスの映画を後生大事にして生きている私のような者でさえ、本作のジュリエット・ビノシュはキャリア最高の演技なのではないかと思ってしまうくらい魅力的で、スクリーンからこちらを覗き見るビノシュに本当に恋してしまいそうになってしまった(『ポンヌフの恋人』が発表されてから20年が経過しているのに)。『トスカーナの贋作』を体験した者は、おそらく第一に、恋愛って素晴らしいね!、と顔を紅潮させながら思うだろう。そう、恋愛はバカみたいに素晴らしい。こんなバカみたいな言い方しかできないくらいにね!ジュリエット・ビノシュのいつも少しばかり涙ぐんだ瞳(実際彼女は涙を流すのだが)に見つめられて以降、私も常に涙目でスクリーンに向き合っていた。教会広場でジュリエット・ビノシュとウィリアム・シメル、ジャン=クロード・カリエールと同行の女性、計4人の周りをぐるりと周回するカメラの動きの果てに、カリエールはシメルに粋なアドバイスをする。愛する彼女の横に並んで歩けばいいんだ。こんな単純なことが簡単にできる/できないからこそ映画は輝きを帯びる。



横に並んで歩く男女2組がカメラの手前と奥に収まるショットが本作には2回だけある。この「単純な」ショットが何故これほど感動的なことなのかは、冒頭から何度も鳴り響く教会の鐘の音が教えてくれる。何度も鳴り響く教会の鐘の音は、セカンド・チャンスであろうがサード・チャンスであろうが人生は何度だって再出発できるし、何度だって同じ人と初恋ができる、ということを騒々しさの裏でこっそりと教えてくれる。2人が立ち寄ったカフェの女主人は一人になったビノシュに「彼(シメル)ったらまるであなたを口説いてるようだわ」と笑って語り、離れてみることの重要性を説いていた。ビノシュとシメルの道中、同じショットに2人が並ぶことと、何かに中断され、それぞれが1人の時間になるショットでは、その映像(と音声)の対比が浮き彫りにされる。絵画の中に描かれたモナ・リザの微笑みが「本物」なのではなく、モデルになった「ジョコンドの妻」こそが「本物」なんだ、と説くシメルの台詞は、男女が同一のショットに収まるという映画の「単純さ」について、「単純さとはそんなに単純なものではない」という困難への、これ以上ない問いになっていた。そしてなにより大切に思えるのは、『トスカーナの贋作』が、いつまでも「見つめていたい」という私たちの単純な欲求と、切実な関係を結ぶことだ。


追記*最後の「見つめていたい」の一節はいま読んでいるシャブロルの本に出てくる美しい言葉と見事に接続したのだった。


追記2*ちなみに私はジュリエット・ビノシュが来日した際、最前列を陣取りました。以下、そのときの記事。
http://d.hatena.ne.jp/maplecat-eve/20090314


追記3*キアロスタミの新作は宮崎あおい主演『The END』!