『ヒア アフター』(クリント・イーストウッド/2010)


地元シネコンにてイーストウッド最新作。ああ、こんなにスーッと心の隙間に染み渡るイーストウッドはいつ以来なんだろう?と思うくらい『ヒア アフター』は静かに澄みきっていた。『チェンジリング』における他を寄せ付けない圧倒性ではなく、VFXによる派手な津波シーンといった新たな挑戦が冒頭に置かれているにも関わらず、『ヒア アフター』は静かに心の扉をノックする(「心の扉を開く」とい台詞が幾度も出てくる)。正直私は『ヒア アフター』が傑作かどうかを喧伝したりすることには、あまり興味がない。一本の映画と自分との関係をどれだけ築けるかどうかが一番大切なことだと、『ヒア アフター』は改めて教えてくれたのだ。途中までは「インディペンデント・ライフ(ひとりで生きる)」ということだな、と今回もイーストウッド映画に似つかわしい解釈をしていた私は、そのアッケラカンとした映画のウソで結ばれるラストにシミジミと泣かされてしまった。また、『インビクタス』のラストにおけるあの異様な長時間スローモーションについて、『ヒア アフター』には確かなヒントがあると感じた。イーストウッドにとって「未来(来世)」とはスローモーションのことなのだろう、と。



引退した霊能者マット・デイモンが料理教室で出会ったブライス・ダラス・ハワードを初めて部屋に招待するシーンにおけるブライス・ダラス・ハワードの視線にまず注目したい。ここで自身の正体について告白せざるを得なくなったマット・デイモン(その直前に黒い目隠しをしながら2人が「自分語り」に及ぶエロティックなシーンが用意されている)は、彼女の方を向くことはなく、カメラの手前で作業を続ける。一方、彼の秘密に興味津々なブライス・ダラス・ハワードは幼いころ手術をしたという彼の後頭部をひたすらに見つめ続ける。ここでの会話がカメラポジが変わっても、ブライス・ダラス・ハワードと観客の視線を常にマット・デイモンの後頭部に過剰に長い間集中させるように出来ていることが恐ろしい。その直後に2人が向き合って霊媒を行うシーンでブライス・ダラス・ハワードは『チェンジリング』のアンジーと同じ涙を右目からこぼす。このアップの類似が過酷な「インディペンデント・ライフ(ひとりで生きる)」を表わしているように思えた。向かい合った2人が互いの心の扉を開くことで逆に「他者」を超えられなくなる。部屋に一人残されたマット・デイモンの体のシルエット(孤高の影)を含め、ここまではイーストウッドらしい苛烈な展開だったと思う。



ところがここから一気に映画はPeople Make The World Go Roundの軌跡(奇跡)へ向かう。3つの中継によって並列された3つの出来事がロンドンの街で縁(円)を結ぶ。何者にも頼れないインディペンデント・ライフ(「死者と話しても意味がない」という冒頭の台詞が象徴的だ)だった人と人(亡霊含む)の関係が、未来というスローモーションによって結ばれる。思えば冒頭で津波に襲われたセシル・ドゥ・フランスが水中から見た光景はスローモーションによる幻想的な世界だった。死んだ兄に死後の世界から「ここではなんでもできるんだ」と全能感を自慢されていた小さな子供(もう一人の主役)のエピソードを思い出してもいいだろう。つまりイーストウッドにとって、スローモーションという引き伸ばされた時間は、クロノス時間を突破する未来への可能性なのではないだろうか。マット・デイモンセシル・ドゥ・フランスとの未来を予見する、あの決定的な出会いの予見としてのスローモーションと、その後に固く交わされる握手は、この奇跡的な出会いが決して彼岸の恋の物語ではないことを証明している。未来は出会いと共にある。泣かずにはいられない。


追記*インチキ霊能者の描写はいつもながらよくこんな顔選んだねってくらいエゲツないですけどね。あのオバサンの目(アップ)はヤバイ。