『アウトレイジ』(北野武/2010)


地元シネコン109シネマズ横浜にて北野武最新作。いろんな方面の前評判から「北野武復活」のウワサは聞いていたのだけど、復活もなにも個人的には『TAKESHIS’』という作品に強い感銘を受けた記憶はまだ新しく、所謂「事故後」という、一部で北野武の停滞と囁かれる長いタームで言えば、評価の低い『Dolls』にも敬意を抱いている。とはいえ私はキタニストというわけではないのだけど。この「事故前/事故後」の評価軸の文脈に沿った上で、ただ一つ思うのは、『アウトレイジ』を全編に渡って支配する殺伐とした空気、画面のトーンとしての重み(黒いベンツの並びが効いている)が、戦争と暴力=物語の果てになんらカタルシスを用意しないという面白さか。事故前の北野作品が破滅へと向かう物語自体ではなく、その過程において画面のトーンとして細部に宿していた、感動なき感動の殺伐さが甦っている。その上でそれは物語自体の感動の一切を拒絶している、というところが圧倒的に素晴らしい。だから本作を娯楽に徹した職人的な秀作とは思わない。むしろキタノ映画の前進と受け止めた。その前進は味わい深く凶暴だ。


この凶暴さは北野武自身の凶暴さではない。北野武の暴力の凄まじいまでの速度は昔から変わらない。そして『TAKESHIS’』で曝された北野武自身の加齢によって弛んだ体(これはドキリとするわけだけど)のように、北野武自身の体は既に老いてしまっている。それでも凶暴さは画面に宿る。歯科道具での拷問シーン(壮絶!)のあと、仮面のような医療器具を着けた顔のアップ(ギャグのようだ)→その近くで麺を啜る男(啜る音!)、というモンタージュが放つ残酷なほどのエモーションの振れ幅に。これまた壮絶なる椎名桔平の死に様と俯瞰のロングショット&横移動の撮影に(大悶絶!)。またラーメン店での震撼と余白が同居する椎名桔平の笑いが持つ怖さに。しかしこれらは技術的な達成として「巧さ」の範疇に入る。この映画が奇妙な印象を与えるのは女性の背中のフェイドアウトが銃撃戦のそれよりも何故かスローモーションに見えることや、「コノヤロー」繋ぎの顔の切り返しの妙技だろう。


北野武の映画に出てくる女性は『Dolls』の菅野美穂など例外を除いて、ほとんど同じに見えるのだけど、映画そのものの「運び屋」としての女性の背中がこれほどの黒味に入っていくことにまず驚く。背中といえば尋問室やカジノの男性の背中は、座った状態で対象を囲い舐めるように撮られているの対して、女性は立ったまま奥へ、黒味に消えるように撮られている。女性の描き方が画一化されている北野武映画にあって、これは興味深い。それらは事件の予感としてこちらが読めてしまう展開を持ちながら、あの背中の艶めかしい動きだけが、事件以上の残像を残す。執拗に繰り返される「コノヤロー」繋ぎの顔の残像も然り。


アウトレイジ』のカタルシスなき終焉は、物語ではなく暴力や黒味の境界線上の残像だけを記憶に投射し続ける。この残像というトーンの抑制されたコントロールに心から痺れた。ノー・リミッツ、ノー・コントロール。コノヤロー繋ぎだよコノヤロー!


追記*加瀬亮の天才ぶりと椎名桔平のカッコよさに大悶絶。


追記2*北野武の衣装チェンジで、ひょっとしてこの男は天使になるのかな?と思わせといて・・・ってところも面白いよね。