『テイク・シェルター』(ジェフ・ニコルズ/2011)


新鋭ジェフ・ニコルズの『テイク・シェルター』は、不安神経症的な対象を極めて冷徹に捉えるカメラの、その距離と手法によって、それぞれ手法が違うながらも2011年に偶発的に発表された『アナザー・プラネット』(マイク・ケイヒル)や『メランコリア』(ラース・フォン・トリアー)といった「世界の終わり」を描いた新作と、決定的な違いを生み出している。前作『ショットガン・ストーリーズ』において、それ自体が過剰な暴力に思えるほど広大なアメリカの土地を背景に、しかし最後まで銃の音を響かせなかった(あんなにいい音がしそうなロケ地なのに!)ジェフ・ニコルズの野心、というより、肝の据わり方、は相当なものだ。ギミックは展開されど、基調となるカメラの居直り方に注目したい。このカメラにはごまかしがない。さて、個人的に面白いと思ったのは、『テイク・シェルター』では紙幣の交換が、フリーマーケットを初めとして、ちょうど3回ほど出てくるのだけど(薬、旅行)、その価値がどんどん無価値になっていく、というところで、それがこの作品の主題ときっちり結びついている、ということだ。『テイク・シェルター』では、結局のところ、マイケル・シャノンの見た不安神経症的な風景の、どれもこれもが、どんどんその価値を奪われていく。「狂人」であることによって社会的なすべてを失うだけでなく、精神的な、個人の可視化できるものとしての風景(その最大が「シェルター」だ)を失っていくのだ。だからこの作品は恐ろしい。と同時に「I SEE」があらかじめ言葉を奪われた少女によって、帰結されること、そのときの家族の単純な視線の交換は、外部の物語として悲劇的であり、家族の物語として感動的でもあるのだ。


追記*ジェフ・ニコルズの撮るアメリカの風景、ロングショットは怖くて魅力的だ。