『ブンミおじさんの森』(アピチャッポン・ウィーラセタクン/2010)


長編作品としては前作に当たる『世紀の光』(2006)の洗練を得て以後、『真昼の不思議な物体』(2000)に立ち返るかのような、獰猛なるいくつかの短編(『ナブアの亡霊』『モバイル・メン』『聡明な人々』等)を経たアピチャッポンの新作は、より簡潔さを得た出来栄えになっている。たとえば似通ったところのある『トロピカル・マラディ』(2004)のショット数と比べたとき、『ブンミおじさんの森』のショット数は、明らかに少ない。たとえば家族と亡霊が集う夜の食事シーン(夜の蝉の声!)のフィックスショットには、ひとつのショットへの確信に満ちている。ショットの強度に快楽さえ覚えるほどに。そして相変わらずアピチャッポンの映画はギャグに満ちている。そここそが素晴らしい。アピチャッポンが、かつて『アイアン・プッシーの大冒険』という、くだらないアクション・コメディを撮った作家だということや、エアロビ大会が大好きな作家だということ。このトゥー・マッチ・シリアスにさせない軽さがアピチャッポンの最大の魅力に思える。実際、猿人と食卓を囲むシーン(登場もよい)に今回も笑わせてもらった。ちょっと松本人志の作るコントのような趣きすらある。



アピチャッポンによる外国の観客がオリエンタルな対象に接したときに感じるエキゾチシズムへの距離が面白い。画面に映っている対象が、それ単体でどれだけエキゾチシズムを誘発させようと、アピチャッポンは安易なエキゾチシズムに陥ってしまう自身の観客にさえ笑いで包み込んでしまうような大らかなギャグを周到に張っているように思える。ちょうど兵士の見た戦場の風景を走馬灯のように駆け巡らさせる、という本作と似たシーンのある『トロピカル・マラディ』がそうであったように、こういった距離の測定には知性を感じずにはいられない。この『ブンミおじさんの森』において、たとえば悲劇の女王”オフィーリア・ショット”の美しさ(画像参照)は、画面の美しさと同時にバカバカしさのために奉仕するだろう。超自然的なものを超自然的な事件が人間にもたらす奇跡として描くのではなく、バカバカしさと関係を結びながら歴史(記憶)を通過させる。ここでは超自然と現実は同じ距離で紡がれたフラットな並びとして提示される。猿人や亡霊を交えた食卓を、すぐに受け入れることのできた一家のように。個人的には、こうやって美しさとバカバカしさを必ず表裏一体の関係にさせるところが、この作家に惹かれる大きな要因になっている。たとえば、これを信仰としてやってしまうと河瀬直美になっちゃうんじゃないかな?とか。同じ物語が2部構成で繰り返される『世紀の光』(あまり好きな作品でないけど)。同じショットが何度も繰り返される『ワールドリー・デザイアーズ』。これらは対象をフラットに並べるための実験だったのかもしれない。『ブンミおじさんの森』では幻影さえもが現実の肉体を持った分身として私たちと共生している。それは幻影や分身の持つ記憶のように思える。記憶として静止画(記録)に留められた兵士たちは、写真の中でお互いの写真を撮っていた。幻影が記憶を持つのか、はてまた、記憶が幻影を持つのか。やがて幻影は自立して歩みだすだろう。それはアピチャッポンから世界へ向けられた、大らかなまなざしのように思えた。


追記*単純すぎる連想だけど『大いなる幻影』(黒沢清)を再見したくなった。


追記2*暗闇の中で火の玉サッカーをする『ナブアの亡霊』、エゲツない風の録音とちょっとビーボーイのりな軽トラ映画『モバイル・メン』、荒々しい『聡明な人々』(オムニバス『世界の現状』の一篇)、どれも好きな作品です。アピチャッポンはより自由に撮られた短編(やインスタレーション)を長編映画に上手い具合にフィードバックさせているようです。